第13話 彫る人に掘られる かがわとわ(絵・芦野信司)

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 花びらの縁に、彫刻刀が斜めに入る。桂の盆に切り込みされた牡丹が、立体的に浮き上がってゆく。彫刻刀を操る右手の指先と、反対側から押し込んで力添えする左手の親指。削って浮いた木屑を手早く払うのも、左の親指だ。こうして近くで見ると、左親指の役割って大切なのだなとわかる。彫る位置に合わせて、盆の向きが頻繁に変わる。
 かりり、さりりと、ささめくような彫刻音に、界の心はちょっと癒される。もっとぐりぐりと大きな音がするのかと思っていた。
「ま、こんな感じで」
 匠真さんが、顔を上げた。
「ありがとうございます。ほんとはもっと見ていたいのですが」
「やってみたい、とか思う?」
「いえ。やりたい派より見たい派です。──だりあだったら、絶対やってみたいって言うだろうけど。先月、この部屋にお邪魔した時は、入り組んだ話で終始しましたからね」
「それなら、鎌倉駅から近い鎌倉彫資料館という所で体験教室をやってるよ。小学六年対象の児童体験プログラムもあるくらいだから、経験として楽しむのにおすすめだな」
「そこよりもこの工房で、匠真さんからだりあに体験指導していただけたら、喜ぶだろうな。すみません。ずうずうしかったですね。前回、工程の詳しい説明を聴きながら、工房の皆さんのお仕事を間近で見学できたことが、だりあはとても嬉しかったみたいです。俺がこうして匠真さんの彫る姿を見させてもらった事を知ったら、また怒るかも。──ああ、やばかったかな」
「だりあちゃんなら、体験指導してあげるよ。──それで仲直りできるなら。また連れておいで。ただ、こっちも仕事がつまっているからさ、いつでもってわけにはいかないけど」
 鎌倉の材木座にある工房は、匠真さんと界しかいない。日曜日の今日、店舗は営業中だが工房は休みだ。店は専任の販売員ふたりが、交代で休憩をとりながらやっているそうだ。匠真さんは、界の求めに応じてたち込みと刀痕入れを披露してくれたのだ。休日を界のために空けてくれた匠真さんは、界とだりあが三日前の木曜日に運慶仏のご開帳参拝のあと、母の墓前で言い合いになった話を、静かに笑みながら聴いてくれた。だりあの期末テストは明後日で終わる。邪魔しないでねと睨まれたことを守って、ちゃんと「無視」している。匠真さんに「日曜日、遊びに行ってもいいですか?」と電話した時、当たり前のように「だりあちゃんとでしょ」と返された。「ひとりで行っちゃだめですか」と言ったら、短い間のあとに「未織を呼んだほうがいい?」と訊かれたので「俺ひとりで匠真さんと会いたいんです。未織さんには、俺が来る事、黙っててください」と告げた。また短い間があった。「いいですよ」と答えた匠真さんの声音は優しくて、最初に工房で迎えてくれた時と同じように「大歓迎です」と言ってくれた。
 一人で来た理由を、味方のように頷いて欲しいと思った。箸箱繋がりで相談できる……というか、今の界のもやもやを受け止めてくれそうな相手は、匠真さんしかいなかった。
 作業机の上を綺麗に片づけて、匠真さんは界に体を向けた。 
「両親も道具のひとつ、か。だりあちゃんは、界くんがその場で反論せずに、お母さんの墓前で反論したことに腹を立てているんだろ。ロジックで自説を仕掛けたのに、心情的な応答を返されて自分も感情的になったんだね。高二だっけ? 頭のいい、女の子らしい女の子だね。だりあちゃんは、界くんをずっとそばで見て来て、界くんのお母さんとも親しかったし、お父さんのこともよく知っているわけだから。でも、界くんがお母さんを失った心的苦痛をわかろうとしても、本当にわかるはずがない。そこを理解したつもりになっているのかな、彼女は」
 木と漆の香りが漂う、すーんと高雅な工房の空気が界の肺肝を開き、言葉になる。
「だりあは、両親が揃った暮らしで、おばさんもおじさんもいい人で、明るい家庭でずっと育ってるんだから。俺の気持ちを理解しろと言うのは無理だってわかります。でも、だからって、親父と未織さんが結婚することを認めてあげるべきだというのは、納得できません」
「えっ!」
 匠真さんの上半身がぴくりと揺れ、胡坐を組みなおした。
「それは……どういうこと……そんな話になっていたの?」
「いいえ。結婚したいなんて話は、親父からひとことも聞いていません。っていうか、互いに話すような感じじゃないですけど。ふたりがつきあってるかどうかも聞いてないのでわかりません。だりあが、勝手にふたりが結婚すればいいと思ってるんですよ。あいつ、死んだ人より生きてる人が大事だとか、お父さんが未織さんと結婚したいなら認めるべきだとか、自分は正義だみたいな顔していうんです。なんなんですかね。勝手に話を自分の理想で妄想しちゃって。ふざけんなっつーの。それに、あいつ、小さい時から結婚、結婚って。俺と当然のように結婚するつもりなんですよ。俺はまだ二十歳なんですよ。なんで、もう結婚相手がだりあに絞られてんですか」
「そ、そうだね」
「だいたいですよ、俺ばっかり窮地に立たされるのが納得できないです。箸箱の確認をしようとしたのが見つかって、親父からは暴力を振るわれるし」
「暴力……。そんな目に遭ったのかい」
「ええ。もう、殺されるかと思いました。意識が遠のくくらい責められて」
 話のはずみで、界は父親を非情な悪鬼のごとく盛って表現してやった。
「そんな男と結婚して、未織は大丈夫だろうか」
「だから、結婚しないって言ってるじゃないですか」
「失礼。お父さんのことを、そんな男なんて」
「そんな男でもあんな男でも、好きに言ってください。親父も親父なら、未織さんも未織さんです。そもそも未織さんは、なんで俺にいろいろやらせるんですかね。未織さんのミッションを俺が必死でこなしたから、未織さんが持っている箸箱と、俺の箸箱が匠真さんが彫った割文字で対になったものであることがはっきりしたんですよ。元は徹志さんに送った箸箱だったと判明したのは、俺が動いた結果なんですよ。そこ、わかってますよね。その前には、未織さんにいきなり呼び出されたおかげで、だりあに妙な誤解をされたりしてすごく困ったし」
「その誤解は、僕のせいだから。ほんと、謝まる」
「最初に未織さんが箸箱がどうのこうの言ってこなければ、俺はもっと平和に暮らしてたんですよ。山形の親戚のことまで調べたり、必死に推理をしたり」
 噴き出す感情が、はっきりした怒りに変わって来て、自分がきつい顔をしているのがわかったが、もうどうでもいい。
「すまなかった。僕も箸箱のことは……徹志さんの行方も含めて……運慶の箸箱のほうもどうなったかずっと気になっていることだから」
「そういえば、未織さんに匠真さんを紹介された時、あなたに会いたがっている人がいると言われました」
「僕には、あなたに会わせたい人がいるという話で、界くんを。いや、いいんだけど」
 匠真さんが、ごまかすようにゴマ塩頭に手をやった。裏で糸を引いて俺らを動かしているのは、未織さんなのか。なんで俺に次々にミッションを負わせるのか。
「正直、未織さんに良く思われたくていろいろしてきましたけど、疲れました。親父とどういう関係か知らないけれど、それなら親父に箸箱のことを調査させたらいいじゃないですか。それとも、もう調査を親父にゆだねようと思ってるんですかね」
 ──なんか、もう、疲れた。やってられない。俺の意味って何?
「界くんは、未織のことが好きだろ」
 今日はいい天気だね、みたいな口調で匠真さんが言った。
「──え?」
「見ていればわかるよ。だりあちゃんも無自覚で界くんの心の揺れを感じ取っているのかも知れない。未織はいい女だからなあ。わかるよ」
 噴き上げるごとく喋り続けていた界は、困惑してうつむいた。心の深部に匠真さんの彫刻刀がするりと差し込まれて被覆していたものを剥かれた気がした。
「そんなことは……」
「界くんにばかり吐き出させて、僕は聴いているばかりじゃ申し訳ないから」
 顔をあげると、匠真さんの包み込むような瞳が笑って細くなった。
「僕は未織に振られたんだよ。未織はさ、徹志さんが現れるまでは、俺に思わせぶりなことを言っていたんだよ。いとこ同士は結婚できるのよねって」
「つきあっていたんですか」
「つきあってはいないよ。親戚の集まりとかで会うと、いつもそれ言うから。僕も嬉しかったし。そのころから未織は人に何かを頼むのが上手で、好意を寄せている未織から何か頼まれると、ついやってあげたくなってしまうという……。未織に言わせれば、僕を振った気などさらさらないだろうけど、天性の魔性っていうやつかな。未織は当然、界くんの気持ちをわかってるから、ああいう行動をとるんだろうな」
 匠真さんは、自分の過去を笑って、界を落ち着かせようとしている。申し訳なく思うと同時に、匠真さんへの親しみが増した。
「俺と匠真さんは、未織さんのパシリってことですよね」
「それも彼女の魔力があってだよ。界くんは未織のどこに惹かれたの?」
「亡くなった母親の匂いがしたからです。初めてあった時、未織さんの手から、母親が愛用していたハンドクリームと同じ香りがしました」
 つい、言ってしまった後で、界は慌てて匠真さんに頼んだ。
「絶対、この話、誰にも言わないでくださいね。もちろん未織さんにも」
「約束するよ。そうだったのか。界くんは、未織をお母さんと重ねたんだね」
 お母さんと重ねた? ざわざわとしたものが胸にせり上がってくるのを、界は即座に押し込んだ。
「あくまできっかけです。重ねてなんかいない。母親と未織さんは、全然違う」
 匠真さんはそれについては何も答えず、
「だりあちゃんもさ、迷惑な悪女だよねえ」
 とため息をついた。
「だりあは、悪女の素質ないです! あいつは、まっすぐで一生懸命なだけですよ!」
 にっと、会心の笑みを浮かべた匠真さんに、
「あっ、ひっかけましたね」
 界は、バツの悪さで耳が火照るのがわかった。
「だからさ、またふたりで来なよ。今日は、男同士で飲みに行こう。この近くに自家製燻製レストランがあるんだ」
 友だちに言うように、界を誘った。

 帰宅した時、父親はいなかった。もしかして未織さんと一緒なのかも知れないと思うと、またイラついて来た。日曜の図書館は五時までで、閉館後の業務を済ませて……。界はリビングの時計を見上げた。六時半。待ち合わせて会っている可能性はある。母親の墓前にあった新しい花。父親は母親に何か報告でもしたのだろうか。
 コーヒーを淹れて自室に入り、本棚から製本した本を抜く。灰色ががった黒に深緑のマーブル装幀。花布と栞も深緑で揃えた『夢十夜』。あの時の未織さんの手の香り。第六夜の運慶の話……。どうしてこんなことになってしまったんだろう。
「界くんは、未織をお母さんと重ねたんだね」
 匠真さんの言葉が楔のように、打ち込まれて抜こうとしても抜けない。
 父親と未織さんが近づくことを嫌悪するのも、だりあが父親と未織さんの結婚に好意的なのが苛立たしいのも、未織さんのことが気になってしかたないのも──。俺はマザコンなんかじゃない。早くに亡くした母親を忘れられないのは、当然のことじゃないか。親父だって忘れていないはずだ。忘れられないはずだ。未織さんだって、徹志さんのことを。行方の分からない箸箱を探しているのは、持ち逃げした徹志さんを探していることとイコールじゃないか。
「界くんは、未織をお母さんと重ねたんだね」
 頭の中でループする言葉は、界が、死んだ母親を熱源として生きてきたことを突きつける。救いを求めるように本棚に目をやる。萩原朔太郎の『絶望の逃走』を手に取る。神田の古書店で手に入れたものだ。
 ──幸福人とは、過去の自分の生涯から満足だけを記憶している人々であり、不幸人とは、その反対を記憶している人々である──
 界はこれまで、たくさんの本に癒され、道しるべを得て来た。今、目に飛び込んで来た言葉も、おっしゃる通り……だが、素直に受け入れられない。母親を亡くした傷を消せないのは不幸人なのか。母との楽しかった思い出だけ、うまい具合に記憶に残すなんて俺には出来ない。ついでにニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を乱暴に抜く。
 ──あなたが出会う最悪の敵は、いつもあなた自身であるだろう──
 未織さんとは距離を置こう、と思った。
 しばらく会いたくない。
 突然、スマホの通知音が鳴り、界はぎくりと体を縮めた。
 画面にLINEの通知が浮かんでいる。
 「未織/話したいことがあります」
 既読がつかぬよう、トークルームに入らなかったが、緑のアイコンの右肩についた赤丸の未読表示は、界を試すように主張していた。

この記事へのコメント

  • かがわとわ

    カラーピーマンさま。
    ありがとうございます。カラーピーマンさんのコメントは、「書く支え」になっておりまする。
    今回は匠真に、いろいろと役目を負ってもらう構成にしました。
    未織がなぜ界に連絡して来たのかは、次の藤村邦さんの自由ですのでわたしとしても、展開が楽しみなのです。
    2023年02月26日 22:30
  • カラーピーマン

    かがわ様 
    第13話 拝読いたしました。

    やっぱり未織は魔性の女ですね。まさか匠真にまで思わせぶりなこと言っていたなんて。
    女は男が違う女性を好きになるとその相手の女性を憎むけど、男は相手の男性ではなく、心変わりした女性に怒りを向けると、何かで読んだことあります。
    同じ女性を好きになったことのある匠真と界、ましてや本命は界のお父さんかもしれない中、二人に友情が芽生えても不思議ではないと思いました。

    「既読がつかぬよう、トークルームに入らなかったが、緑のアイコンの右肩についた赤丸の未読表示は、界を試すように主張していた。」(最後の2行)
    界じゃなくてもそう思っちゃいますよね。未織は何を考えているんだろう? 今後の展開がますます気になります。

    次回も楽しみにしています。ありがとうございました。
    2023年02月26日 15:13

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