「箸箱はそこにはないぞ」
悠吾は界に向かってドスの効いた声で言った。界はあわててバタンと引き出しを閉めた。何も言わずに部屋から出ていこうとする息子の腕を握り右手で胸ぐらを掴んだ。
界の目は怯えている。
悠吾は両腕に渾身の力を込めて、息子を椅子に押し込むように座らせた。
「前から部屋に入ってることは知っていた。お前くらいの歳に父親の持ち物が気になるものわかる。しかし鍵を探して引き出しまで開けていたとはな。お前は盗人か!引き出しの脇には開けると落ちるように小さな紙を挟んでたんだよ。誰かが開けたかは、紙が落ちているのでわかる。そもそも今朝のお前の様子はいつもと違っていた。何時の電車に乗るなんて聞いたことないからな。現行犯だぞ、言い訳できないだろ!お前の学費を稼ぎ、母さんに代わりに育てたのは誰なんだ。いったいなんで、こんなことをしたんだ!」
界の顔からは血の気が引き、唇はワナワナと震えている。
「何で探してた。もう使わない箸箱に何で興味を持った」
「……」
「何で黙っている」
「ごめん」
「何で探してたんだよ。はっきり言え!」
「……」
「ほら、正直に言えよ!」
悠吾は左手で掴んでいる界のTシャツを思い切り締め上げる。
「あ……く、くるしい」
「何も言えないのかお前は!一発殴ってやろうか!」
界の面前にいる人は友達だった父ではなく恫喝する大人の男だった。
「早く言え!こんな息子を知ったら母さんはどう思う。おい!何か言え!ほら、ほら」
「ごめん、本当にごめん」
「探している理由を聞いてるんだよ!」
悠吾は更にTシャツを締め上げ、右手の拳で息子の額をグリグリと押す。
「痛い、痛いよ、やめて父さん」
「痛いならオレに向かって来い!オレから箸箱を奪え!」
界の目から涙がボロボロとこぼれ始める。
その時、ピンポンと玄関のチャイムが鳴った。
「こんなこと、二度とやるな!」
界を解放し、箸箱を入れたスーツケースを持って玄関に行きドア開けた。そこには能面のような顔をした、だりあが立っていた。
「界ならオレの部屋にいるよ」と言って悠吾は駅に向かった。
会社に向かう電車の中、目の前の席には若い父親と幼稚園くらいの男児が一緒に座りスマホを見て笑っている。「育メン」という言葉が流行りだして、厳しく叱れる父親が減ったことを、何かの雑誌で読んだことがあった。田中医師の勧めで友達のような親子関係でやってきたことは、結果的には良かったとは思う。界は大学に行き、彼女もいて自立できた。しかし悠吾の中にいる本来の父親イメージは、悠吾が演じている父親とは、かなり違っていた。今朝の行動は、かつての自分の父親のようであったと悠吾は思う。
車窓の曇った冬空を見ながら、あれほどの怒りが出た理由を悠吾は考えていた。
界が母親への思慕で箸箱を使いたいなら、直接、自分に言って欲しかった。悠吾と加奈子と界、そして母を繋いでいた思い出の箸箱の所在を息子に隠す理由など何もない。コソコソと自分の部屋に出たり入ったりしているのが気になっていた上に、山形では妹に箸箱のことを聞いたりしたのも不快であった。「箸箱はどこにあるの」と聞かれた時に、思わず怒りから「秘密だ」と言ったことが息子の好奇心を煽ったのかもしれない。界が自分に素直に「箸箱をもう一度見たい」と言ってくれれば、いくらでも貸してあげたのにと悠吾は思った。
——界、お前はいつからオレに対して、そんなに冷たく他人行儀になったんだ。
息子が自分から離れていく態度が淋しく悲しかったのだ。幼い頃の「親父」のことが悠吾には浮かんだ。
悠吾の父親は高校1年の時に心臓発作で亡くなったが躾には厳しい人であった。嘘をつくと必ず怒られたし、他人を傷付けるようなことをすると容赦なく叩かれた。中学時代に同級生と一緒に、在日朝鮮人の女の子をからかった時には、腕を引きずられ蔵の前に立たされ「二度とやるな」と言って鼻血が出るほど殴られた。悠吾の中で押さえ込まれていた本来の父性が今朝の悠吾の行動で引っ張り出されたのだ。友達のような優しい父親像しか知らない界にしてみれば、悠吾の豹変ぶりには戸惑いと恐怖しかなかったであろう。しかし、この半年間、二人の間にある緊張感と遠慮、演技が入り交じったような形式的関係を断ち切る意味では良かったのかもしれないと悠吾は自己弁護した。本気の対応が息子にできたことに、どこか、すっきりしている自分もいた。しかしそれとは別に、未織という女への不信感が大きく膨らんできていた。
その未織とは、今夜新宿で会うことになっている。
1月に2週間の台湾出張に行ったり叔母の葬儀があったりしたが、バブルごっこで生れた未織への欲望は悠吾の中では大きく膨らんでいた。同世代の夫婦やカップルを見ると未織と自分が重なり、激しい情動が度々立ち上がってくるのだ。
田中医師はトラウマが性的欲望を抑えると言っていたが、確かに加奈子が亡くなった後から性的なことへの関心は殆ど無くなっていた。年齢的なものがあると自分を納得させていたが、未織に会ってから股間の生き物は何度も息を吹き返すようになった。未織のふくよかな乳房、絡みあう舌、股間を刺激する未織の指の感触、あの時を思い出すだけで悠吾のペニスは硬くなった。悠吾はまだ禁断の果実を食べてはいない。自分は好物の前で「待て」をさせられて涎を垂らしている犬ようだと思った。未織と関係を持つことに一歩踏み出せないのは、加奈子への罪悪感や 性的行為から遠ざかっている自分が邪魔をしていることは解っていた。
肥大してきた自身を握り未織とのセックスを想像して刺激したこともあった。しかし欲望を放出して冷めた自分に戻っていく時、必ず加奈子の葬儀の風景、泣き続ける界の姿が映像のように現れて「自分は何をやっているのだ」という後悔の念が生じのるであった。未織の登場は、男の悠吾を立ち上がらせる一方で、加奈子への罪悪感も引き出していた。それ故、この2ヶ月間、自分から未織に連絡することは出来なかった。
「先生、ちょっと惹かれている女性がいまして」
悠吾はバブルごっこ体験と未織への気持ちを田中医師に言ってみた。
「それはいいことです!これからは自分のことを考えてください。男の人生は50代からです」
「忘れていた感情なんですよね、というか人生始めての激しい感情かもしれない」
「テストステロンという男性ホルモンは環境や女性からの影響を受けます。テストステロンが減ると時にうつ病のような状態になるんです。女性は閉経しますが男性更年期は、いつやって来るかわからないのです。何しろ男性の生殖行動は80代でも可能ですから。ミック・ジャガーなんか凄いでしょう」と田中は笑う。
「それとね!中ノ瀬さん、50代は肉を食べることです。男性ホルモンが戻ってきます。50代は肉、女、運動です。ははは」と、ラガーマンのように頑強な体躯を持つ田中は笑った。
――田中先生は自分のことを言っているのだろう。
「ところで、その方は奥様に似ているのですか」
「外見などは似ていないし、妻にも感じたことのない激しい欲望を感じるんです。会いたい気持ちと、それを抑えたい気持ちが葛藤して、電話もメールも出来ずに2ヶ月も経ってしまいました」
「サバイバーギルトという無意識の罪悪感があります。奥様に対するギルト、その先には母親へのギルトもあるんでしょう。それがその方への接近を禁止させていますね。無意識の話ですから僕には難題です。高村先生が来ていますから一度会ってみますか」
「高村先生って、あのアル中の、あ、失礼しました、ときどき見かける先生ですね」
「高村先生は私の先輩なので、あれでも分析医なんです」と言ったので「考えておきます」と悠吾は答えた。
「予約は一ヶ月後でいいですね、また不安発作が出るかもしれませんので薬を出しておきます」
未織への思慕は叔母の葬儀で故郷に戻ってから更に強まっていた。
界は自立して、自分の知らない世界を持ち心理的距離をとっている。息子と友達のように付き合う時代は既に終わったと改めて感じ、無性に淋しくなった。
実家には悠吾と界と母が一緒に写った写真が置いてある。
界が幼稚園生だった時に酒田の荒崎海岸で撮った一枚の写真。そこに妻は写っていない。幼い界を真ん中にして微笑む母親とそして悠吾が写っているが、悠吾の顔は笑ってはいなかった。
この写真を見る度に箸箱に入っていた母からの手紙を思い出す。
母は界が小学校に入るまでには、加奈子が酒田に父息子と一緒にきてくれるだろうと思っていた。母は「記念の箸箱は自分で渡したい」と一緒に来るのを持っていたのである。しかし加奈子は来なかった。何度「一緒に行こう」と誘っても「界と二人で行ってきてよ」と強い口調で言うだけだった。
母の手紙に書いてあった内容は今でも覚えている。
「界君、入学おめでとう。今度はお母さんに来てもらって一緒に写真を撮りましょう」
それだけの内容だった。
悠吾は母と妻という二人の女性の間で、山形では息子、神奈川では夫の役割で生きてきた。妹は山形で幸福な家庭を持ち事業を展開して幸せな家族を作っている。酒田には自分の居場所は無いと思った。今の悠吾には情緒を通わせ笑い合ったり肌を触れあったりする相手が一人もいない。加奈子がその対象だったかというと、正直、自分にはわからない。加奈子と食事をする時には母が心に立ち上がり、山形に界と行った時には妻が心に立ち上がった。その加奈子と母はもう二度と会うことはない。そして自分も二人に会えない。
悠吾の孤立無援感は東北地方の湿った風雪によって刺激され、以前から抱えていた空虚の穴は拡がった。横浜にいようと、新宿にいようと、逗子に行こうと、自分の穴が埋まることはない。悠吾の人生は、凍えるような雪道を、温もりを求めながら一人で歩いているようなものだ。未織に会いたい、人肌の暖かさが欲しいと思うことが増えていた。
そんな悠吾に思いがけないビーナスからの「誘い」が舞い降りてきた。
二月の月末の業務報告をまとめマインドフリーダム社を午後7時に退社し、西新宿オフィスから中央通りを新宿駅に向かって悠吾は歩いていた時、スマホの振動音がした。
取り出して画面をみると「高富未織」と出ている。興奮するような気持ちでスマホに出た。
「未織さんですか!」
「悠吾さん、おひさしぶり。お元気でしたか」
その艶やかな声に胸の鼓動が早くなる。
「しばらく出張で連絡できませんでした」と悠吾は嘘をついた。
「バブルごっこなんて遊びに誘ったから、悠吾さんに嫌われたと思っちゃった。でも連絡が来ないから、逆に心配しちゃって、実は話したいことがあるんです」
――未織が自分を誘っている。
「週末は都合悪いので、明日なら7時に横浜に戻れます」と会いたい気持ちを抑えられず無理な予定を告げた。
「いえ私から新宿に行きます。店は私が予約します」
「でも、未織さんは翌日、仕事でしょう」
未織はすこし沈黙した後「大丈夫です、泊まりますから」と言った。
「じゃあ、僕もそうします。泊まるのは西武新宿プリンスです」
「じゃあ、私もそこに部屋をとります」
――未織からベッドに誘ってきている。
悠吾の股間が熱を持つのを感じる。密会前の若い男のように周囲をキョロキョロと見回した。
ところが次の瞬間、想定外のことを未織は言ってきた。
「お願いがあります。悠吾さんが持っていた箸箱をじっくりと見たいんです。持ってきてくれませんか」
――なんだ、また箸箱かよ。
不快な気持ちが一気にわき上がったが「ええ、いいですよ」と言って電話を切った。
未織の艶やかな声で立ち上がった男の欲望は「箸箱」という言葉によって一撃されてしまったのである。
――運慶の流れを組む箸箱といったって、そんなことは本当かどうかもわからないじゃないか。母からもらった箸箱に何の意味がある。本当に運慶と箸箱は関係あるのか?
悠吾はスマホの検索サイトに【運慶 箸箱】と入力した。検索したが何も出てこない。
——まったく関係ないじゃないか。
スマホをいじりながら歩いていると、走ってきた子どもが悠吾の腹にぶつかった。「痛っ、気をつけろよ!」と悠吾は怒鳴った。いつもとは違う自分の態度に悠吾自身が驚く。追いかけてきた母親は、スマホ歩きをしていた悠吾を睨み子どもの手を引いて歩き去った。未織からの電話で悠吾の葛藤は肥大していた。
帰りの湘南新宿ラインのグリーン車でハイボール缶を飲みながら、未織との再会の意味をずっと考えていた。
——箸箱で未織が抱けるならいいじゃないか。男と女の付き合う動機づけなんか最初から違っているのはよくあることだ。自分と加奈子だって結婚の動機は違っていた。加奈子は自分が始めての男だったし、オレを自分の近くに留めたかっただけだ。あの頃は、博士論文の研究で疲れていたし薬剤会社にコネクションがある加奈子の父親の存在が魅力だったからだ。理由はどうであれ、バブルごっこの時、未織と自分はお互い興奮していた。どんな理由でも未織を抱けるならいい。
悠吾が帰ると息子はまだ戻っていなかった。コンビーフ缶を開け、山形で買った「くどき上手」を手酌で飲んでいるところに界が帰ってきた。バイト土産の入った袋を置いて二階に上がっていった。友達同士の父息子関係も、この頃は形式だけの関係しかない。
今朝の界との一件は、未織への敵意の着火剤となった。
朝から仕事にならなかった。未織はビーナスどころか魔女だという思いが頭から離れない。
——未織が裏で画策するなら、こちらにも考えがある。界のことをネタにしてホテルに誘ってやろう。シングルファザーの親子関係をぶち壊した女が未織だ。未織に界は命令されて部屋に入ったに違いない。今夜は界との関係も含めて未織に本音を聞いてやる。すでに未織は界と出来ているのかもしれない。歳をとった自分より若い息子の身体の方が刺激的だというのか。おれには箸箱のため、息子は身体のためか……。あんなガキに女が扱えるのか、それならオレの方が未織の中にいる女を引っ張りだしてやる。
その日の悠吾はオフィスでも気持ちが不安定だった。春に入社した女性社員に「いつになったら正確な資料を作れるんだ」と普段は言わないようなことまで言った。
午後5時、悠吾は箸箱の入ったアタッシュケースを持ち会社を出た。
緊張からくる動悸が止まらないので、田中からもらった安定剤を飲み、歩けば15分程度の場所だったがタクシーを拾い歌舞伎町一番街の入り口に行った。
入り口のセブンイレブンの前には、ネイビー色のレディースコートを着たスタイリッシュな女性が立っている。多くの人が行き来していたが、未織の姿はすぐに悠吾の目に飛び込んできた。
「どうも、お久しぶりです」とトレンチコート姿の悠吾は頭を下げた。
「今日は時間をいただいて申し訳ありません、なんだか暮れの会では酔ってしまって、悠吾さんから連絡がないので嫌われてしまったのかと思っていたの」と未織は微笑む。ダークブランでレイヤーの髪、耳には大ぶりのイヤリングが光っている。
——この女にオレは騙されないぞ。
未織が予約した居酒屋「庄内」は通りを少し歩いたところにあった。
店に入ると「いらっしゃいませ。予約のお客様ですね。こちらにどうぞ」と半被を着た女性店員が声をかけてきた。
二人は奥の座敷に案内された。
「ご主人のコートはこちらにお掛け下さい。奥様のコートはこちらに掛けておきますね」
二人は顔を見合わせた。
「飲み物はどうされますか」
「とりあえず生ビールで」と悠吾、「私も同じでお願いします」と未織は言った。
「本当に今日は申し訳ありません」と未織はまた頭を下げた。
「じゃあ乾杯」と悠吾はビールジョッキを上げて一気に半分飲んだ。
「ああ、仕事の後のビールは冬でも美味いですねえ」
未織を前にすると、朝から持っていた怒りが萎えていくのを感じる。未織の成熟した女性の魅惑的な肉体、視線、振る舞いが、界との一件を悠吾の意識から遠ざけていく。今、未織は自分の前にいるのだ。
——この大人の女と界ができているはずなどない。息子に抱かれるはずはない。
Vネックの未織の白い肌の胸元にはネックレスのパールが揺れて光っている。
面倒なことは最初にすまそうと悠吾は思った。
「最初にお見せしておきますね」
アタッシュケースを畳の上で開いて箸箱を取り出しテーブルの上に置いた。それを見た未織は「やっぱり」と言って自分のバッグから同じ色会いの箸箱を取り出した。そしてテーブルの上で二つの箸箱を並べてくっつけると「七」の文字が現れたのだ。
「あ」と思わず悠吾は声をあげ二つの並んだ箸箱を見つめる。
「未織さんの箸箱と私の箸箱はペアだったのですね。どういうことでしょう。これは母から界の誕生記念にもらったモノですが、なんで母が持っていたのでしょうか」
「私にも解らない……。もういいんです。もう一つがこの世に存在していたことがわかったから。ああ、よかった。悠吾さんに手間をとらせちゃった。さあ、もっと飲みましょう。私、日本酒をいただこうかしら」と未織は安堵した表情になり座敷の上で正座している膝を崩した。すらりとした足が悠吾の目に入ってきた。
——今朝の界との一件を言っておかないと。
悠吾は残っているビールを飲み干して語り始めた。
「今朝、界が私の部屋に入って箸箱を探していました。息子に本気で怒りました。忘れているはずの箸箱に関心を持ったり、妹の久美子に運慶との関係への探りを入れるので、未織さんが裏にいるかと思ったりしたんです。
実は今日もずっと考えていたんです。でも、冷静に考えると未織さんから箸箱を見せて欲しいと昨日電話をもらったわけだから、未織さんと界は関係なく、息子は自分の意志で探していると改めて思ったんですよ」
未織の表情が硬くなった。
「そうだったの……。あの二人はそんなことまでやったの。だりあちゃんと界君が工房をやっている従兄弟の匠真を訪ねてきたの。その時に箸箱の話になったみたいなんです。箸箱の件は私から悠吾さんに直接頼むと話したのになあ……。界君、探偵ごっこみたいなことやって。悠吾さんを変なことに巻き込んでしまって、本当にごめんなさい」
「だりあちゃんが、運慶や箸箱などに関心があるんです。あの二人。だりあちゃんのペースで事が進みますから。だりあちゃんは、母親が他界した息子の世話焼きみたいな気持ちが昔からあるんです。あ、そうそう、日本酒は熱燗でいきましょうよ」
「いいわね」と未織は言って注文ボタンを押した。
「では初孫を燗で二合」と店員に注文した。
その後は、Mermaidのマスターが自転車のロードレースで転んで歩けなくなり店が二週間閉まったとか、マスターの奥さんのぼやきに半日つきあったとか、たわいもない話しが続いた。
未織という女性は悠吾の気持ちを持ちあげるように話しを展開していく。未織が酌をする度に胸の谷間が見えた。その度に悠吾の胸はザワつく。空いた二合徳利が五本になり、二人には酔いが回ってきている。未織は相当に強いのか酔った様子がない。悠吾は思い出したように語り始めた。
「自分は親父から厳しく育てられました。弱い者いじめでもしようもなら鉄拳制裁でしたよ。そんな親父が嫌いで、妻が亡くなった後は息子に友達のように接していました。ところが今朝、自分の中にあった本来の父親性が出ちゃったんです。自分でもビックリしました。明日、帰ったら今日未織さんと会ったことを界に話すつもりです。もっとも、あいつが口をきいてくれたらですけどね、ははは」
「私の父も厳しかった……」そう言う未織の瞳には淋しさが宿った。
悠吾は未織に酌をする。未織は一口で猪口を空にして微笑んだ。
「ねえ、悠吾さんって山形出身ですよね」
「ええそうですよ、でも言いましたっけ。界から聞きましたか、ほらもっと飲んで」
未織は継がれた日本酒をまた一気に飲む。
「どうして僕が山形出身とわかったのですか」
未織はいたずらっぽい眼差しを悠吾に向ける。
「じゃあ教えてあげるから、トウキョウエキって言ってみて」
「トウキョウイェキ」
「ほら、やっぱり」
「……」
「山形の人ってエがイェになるの、都会で洗練されてもとこかに残っている。何回か話していて、悠吾さん山形出身かなと思ったんです」
「でも秋田かも知れないよ」
「秋田弁は、エはエよ」
「じゃあ新潟かもしれない」
「新潟もエはエなの」
「岩手かもしれないよ」
「わかんなーい」
未織は不思議な女性だ。こうして一緒にいると、昔からの恋人のような気分にさせてくれる。
「箸箱の話しにもどりますが、なんで未織さんと僕の箸箱がペアなんでしょう。母は山形に住んでいたわけですから。なんだか嬉しいような、不気味なような……」
未織は初孫を一気に飲み、覚悟を決めたような口調で語りはじめた。
「私の父は運慶の流れをくむ彫り師だったの、今は匠真が後を継いでいる。私が高校生の時、山形から来たという徹志という若い弟子がいたの。いつも父の傍にいた。父は自分の息子のように徹志を可愛いがった。私は大学生になりバブルでバカ騒ぎのように騒いでたけど、都会の男性にはない魅力が徹志にはあったのね。私はだんだん好きになったの」
「二人は付き合ってたんだ」
「うん」と未織は頷いて、細い指で初孫のとっくりを撫でる。
「だから山形弁に詳しいんだ」
「箸箱のことは暫く忘れていた。でも悠吾さんが箸箱を持って私の前に現れたのでビックリしたわよ。対の箸箱が行きつけのバーに座る隣の男性が持っていたわけでしょ。その後に界君とだりあちゃんが現れて箸箱のこと聞いてきたので、悠吾さんの箸箱を見たくなってしまったのね。でも勘違いしないでよ!私は箸箱目的に悠吾さんをバブルごっこに誘ったわけじゃないの。あの日は本当に楽しかったし……」
「僕も楽しかった」
「うん」と未織は頷く。
「未織さん、徹志さんの苗字は?」
「桂木」
悠吾の中に忘れていた遠い記憶が立ち上がり始め、箸箱を母が持っていた理由が繋がり始めた。
「思い出した!徹志さん母の実家にいたお手伝いさんの息子じゃないかな、母の実家には住み込みの桂木さんというお手伝いさんがいた。なんでも夫がアル中で離婚していて職もない母親を祖父が気の毒に思って離れの家を貸して、祖父の家で働かせていたんだと思う。徹志さんとは小学生の頃に何度か会った気がする」
「悠吾さん、徹志と会っていたんだ」
「徹志さんの母親はオレの母親と同じ歳くらいだったと思うな。ただ……」
「ただ?」
「中学生くらいの時に自殺してしまった。たぶんうつ病だったのだと思う。その後、母は実家に戻って、徹志さんの世話をしていたと聞いてる」
「その先は私も知ってる。山形から出てきた徹志を父は自分の息子のように可愛いがった。私は知らなかったけれど徹志の生い立ちを誰からから聞いていたんだと思う。私達が関係を持ったのは私が大学を卒業した後。徹志は初めての男だったし、彼も私が始めての女だった思う。彼は私との結婚を望んでいた。父は徹志が嫌いだったわけでなかった。ただ高富家には男系の血スジがいれば、その人を跡継ぎに残すという古いしきたりがあったの。父は私との結婚に反対しなかったけれど、匠真を跡継ぎにしたのね。あの時。父からきちんと説明すればよかったのに、徹志は結婚も跡継ぎも父から断れたと思い私の前から突然消えたの。ああ、悲しかったなあ……。徹志は界君が生まれるのを知ってお母さんに箸箱の一つをプレゼントしたのだと思う」
「その一つを僕が今持っている。そしてここでこうして二つの箸箱が合っている」
「今日の話で悠吾さんと話すと、懐かしい気持ちになるのが解ったわ」
「箸箱が僕らを結びつけたんだよ」と悠吾は未織の手に自分の手を置いた。
「次に行こうか」
「うん」
二人は店を出た。
酔った未織は腕を組んで頭をもたれてくる。シャネルの匂いと成熟した女性の香りが悠吾の男性性を刺激する。
——やっぱり、この人が好きだ。
悠吾は未織の肩を抱いた。
この記事へのコメント
かがわとわ
コメント、ありがとうございます。
恋の行方や箸箱の謎は、今後リレーしながら展開していく予定です。
複雑な話なので、メンバーも悩みながら(でも楽しみながら)書いています。お時間を割いて読んでいただきまして、感謝申し上げます。
加納八郎
惜しむらくは、折角プリンスホテルに行くのだから、ホテルの中でのやり取りをもう少し詳しく読みたかった。見たかった。残念!
藤村邦(訂正コメント)
藤村邦
かがわとわ
いつもコメントありがとうございます。
未織と悠吾の大人の恋、どうなるのでしよう。
ふふ。♪ お楽しみに。
カラーピーマン
第11話拝読しました。
10話で今までのお話を整理していただき、それを受けての人物の深堀と箸箱の解明、違う書き手なのに無理なく滑らかにお話が続き驚きました。
父の悠吾の中の凶暴性、それを見せられた息子の界、これからの関係性が大きく変わってしまいますよね。それを乗り越えて初めて男同士の信頼が生まれるものなのでしょうか?
母娘の関係とは、また違うものを見せていただきました。
ただ、自分の親のように子供を育てたくない、でも自分の中には親の気性が受け継がれていることへの罪悪感、落胆は似ているかもしれません。
それにしても、未織は罪な女ですわ。自覚がなく悪気もない分、困った存在だなあと。でも、魅惑的なんですよね、男性が夢中になるのは判ります。
ありがとうございました。
次回も楽しみにしております。