「箸箱は、無事に戻したの?」
「大丈夫。ちゃんと鍵もかけ直して戻しておいた」
「鍵?」
「親父の机に、鍵のかかった引き出しがある。貴重品はそこに入れてあるって知っていたから、あたりをつけるのは簡単だった。鍵を持ち歩いていたらアウトだったけど、いかにも親父が隠しそうな所にあってさ。本箱の──」
「ちょっと、 誰が聞いてやしない?」
だりあが、小声でまわりを見まわした。界は微苦笑してコーヒーカップを置くと、
「聞こえないよ。それに、箸箱がどうのなんて他人にはわかんないだろ」
馴染みのファミレス。月曜午後。客はまばらに散っている。界は午後の講義が一コマだけだったので、バイト前に放課後のだりあと待ち合わせたのだ。先週の金曜日に匠真さんの工房を訪ねたばかりである。
「箸箱というより、貴重品のありかなんて発言は……。ここ、家の近所だから。この前、同じ町内に泥棒が入ったよね。そういえば、あの家っておばあさんが一人暮らしで」
「おい、脱線しないで本題に入ろうぜ。ちょっとこれ、聴いて」
界はテーブルにスマホを置き、身を乗り出して、向かいに座るだりあの片耳にワイヤレスイヤホンを突っ込んだ。もう片方を自分の耳へ装着し、ボイスメモのアプリをタップする。
箸箱? なんだっけ、それ。──母があげたものね──本当かどうかわからないけど、運慶の流れを組む人が彫ったって話だわ──界が生まれた記念に鎌倉彫の若い彫り師に頼んだらしい。小学校で使う箸箱がほしいと兄が頼んできたので、なかのせかいって名前を後から入れたのよ──まだ持ってるの?
「誰? この声」
「山形のおばあちゃんの妹の葬儀で「お清め会」をした時の録音。声の主は、親父の妹。俺の名入りの箸箱について探りを入れた時の答え」
「録音したんだ。スパイみたい」
「高富コンビの使命に忠実だからな。親父の引き出しに戻す前に、しっかり写真も撮っておいたよ。あらゆる角度から。そうちょくちょく持ち出すにはリスクがある──っていうかさぁ、そもそも俺がもらった見慣れた箸箱だったのに、なんでこんなにビクビク調査をする羽目になったのか……」
「脱線しないで。愚痴は今度聞く」
今度はだりあが、界に忠告し、話を続けた。
「えーと、山形のおばあちゃんは、界に箸箱をくれたおばあちゃんと、そのおばあちゃんの妹である先日お葬式をしたおばあちゃんの二人。叔母さんは、箸箱をくれたおばあちゃんの娘。関係はわかるけど、どのおばあちゃんとか、誰の叔母さんとか、今後ますますごちゃごちゃしそうだから、名前を教えて話してくれない?」
「箸箱をくれたのが、節子おばあちゃん。で、この前葬式に行ったのが、節子の妹の和子おばあちゃん。親父の妹──俺の叔母さんは、久美子」
だりあは、自分のスマホのメモアプリに素早く入力すると、
「節子さんと和子さんは、亡くなってしまったから、箸箱の話を聴けるのは久美子さんだけだったってことね」
「その場に俺の従姉妹(いとこ)もいたんだけど。あ、久美子叔母さんの娘ね。彼女たちは箸箱のことなんて興味ないし、久美子叔母さんだって、箸箱の事忘れてたみたいだったから──」
「うん。詳しくは知らなかった感じだね」
「節子おばあちゃんは、匠真さんの兄弟子──未織さんのお父さんの弟子だった人と、どういう繋がりがあったんだろう。妹である和子おばあちゃんは、そのへんの事を知っていたのかな。ああ、もう少し早ければ和子ばあばから何か聴けたかもしれないのに」
「わかっていることはここまでなんだから。匠真さんにこの録音を聴かせればいいんじゃないの? なんで、金曜日に匠真さんと会った時に知らせなかったの?」
「未織さんと兄弟子さんの話に……驚いてしまって……言い忘れた」
界がコーヒーカップに手を伸ばして、顔を半分隠すように口をつけた。だりあも紅茶のティーカップを持ち上げて顔を半分隠した。
カップ越しに、ふたりの目が合う。
「忘れた? ふぅん。忘れるかな」
「いや、忘れたっていうか。やっぱりこの録音は、未織さんを含めてあらためて聴いてもらったほうがいいだろうな、と」
「匠真さんから未織さんに、箸箱はやっぱり自分が彫ったものだったと伝えてもらうのでなく、自分もその場に加わりたいってことね。この録音を持参すれば会いやすいしね。あんな話を聴いちゃうと、余計に会いたくなるよね」
界はコーヒーを飲み干すと、下を向いたままスマホを引き寄せ、アプリを閉じた。
「箸箱を苦労して持ち出してさ。未織さんの箸箱にまつわる事を聴かされてさ。分かれた『七』の文字の一客は、俺に渡って来たんだぜ。三人で話し合う権利はあるよ」
カップを置いただりあがイアホンを外し、界に返すために手を伸ばして来た。界が手の平で受けると同時に、だりあの手が上から被さる。小さな手は、界の手を包みこめずに、もう片方の手を下から添えた。
「私も、知ってる。私も、聴いたもん」
瞳が水気を帯びている。ちぇっ、また泣くかよ。界は、自分のいらつきを感取して戸惑った。別にだりあが嫌いなのではない。そう、だりあは「いい子」だ。
「──ごめん。四人で話を進めよう。な」
「そうね。未織さん、可哀想。ほんとに力になれればいいね、私たち」
だりあは、手をほどいて微笑んだ。「私たち」と言った時、表情筋をうまく操つる大人の女みたいな顔をした。それはほんの一瞬で、界が初めて見るだりあの顔だった。
バイトから帰宅した界は、悠吾がリビングテーブルで晩酌している横で立ち止まり、二重に包まれた小さなポリ袋をポンと置いた。
「お客さんの予約キャンセルで余ったスペアリブ。あ、またコンビーフつまみにしてんのかよ。牛と豚の肉攻めになるけど、良かったら」
「お、ありがたい。豪華になるな。界は食ってきたのか?」
「まかない出されたから食べて来た。夕方からの短勤だから、基本、まかないにはありつけないけど、キャンセルが出た都合」
二階の自室へ上がり、ボディバッグを乱暴に外すと、ベッドに仰向けになった。親子で親子の演技をしている現状に、乾いた笑いが息となって漏れる。和子叔母の葬式にふたりで行ってから、型どおりの短い会話はするようになった。気を許したわけではない。全く無視すると箸箱の情報が掴めないので手段を変えたのだ。久美子叔母の家に呼ばれて三人で飲んだ時、親父が箸箱のありかを「秘密だ」と一方的に打ち切った事は、思い出しても腹が立つ。息子の持ち物であった箸箱を隠しておいて、何か秘密だ。冗談じゃない。あの時、久美子叔母さんはどう思っただろう。どうして秘密なの? と訊いてくれても良かったじゃないか。普通、不思議に思わないか? 酔いが回った親父の、おふざけ回答程度にしか思わなかったのか? 叔母さんも酔ってたしな。
「あ゙~。しくじった」
がばと半身を起こし、界は頭を抱えた。あそこで久美子叔母さんに「親父が俺の箸箱を返してくれないんですよ」と、訴えてみれば良かった。追い込み方が足りなかった。立ち上がり、机の上のレポート用紙を開く。
久美子叔母さんの情報。
① 俺がもらった箸箱は、運慶の流れを組む鎌倉彫師がつくった。
② 俺の生まれた記念に発注した品である。
③ 入学時に箸箱が欲しいと頼んだのは、親父。
④「なかのせかい」という名前は後から入れられた。
①と④については事実で、②は事実と異なる。叔母さんの話しぶりからして、①と②は節子おばあちゃんから聞いたと思える。節子おばあちゃんは、嘘をついた。俺がもらった箸箱は、匠真さんの兄弟子さんのものだった。未織さんと二客で一対の。③の親父の行動は? 誕生記念品をなぜすぐに受け取らなかったのか。小学校で使うまで誕生記念品を預けておいたのは不自然だ。親父も何か隠しているのか。④の名入れをした兄弟子さんと節子おばあちゃんの関係は? 匠真さんが教えてくれたように、大変な工程を経て仕上げた箸箱に、あとから強引な名入れをするのは職人として余程のこと。そこまでして俺の持ち物に変えようとした理由は? 兄弟子さんから節子おばあちゃんの手に渡ったのはいつ? 割文字の「七」は、平成七年の「七」。俺が生まれたのは平成十三年。その間、箸箱は誰の手にあったのか。そして、兄弟子さんが持ち出したもうひとつの運慶作といわれる箸箱──まさか節子おばあちゃんが、こっちも預かってたりして。山形の家のどこかにあったりして。預かったまま死んだりしていないよな。誰かに託しておくよな。親父か久美子叔母さん──。やはりふたりは何かを隠している? どこだよ運慶? っていうか、どこですか、兄弟子さん。俺の箸箱が「なかのせかい」と後彫りされた物と知って、死んだ母親が毎朝つくってくれた弁当の思い出は傷つけられました。俺に渡るために無理矢理加工してしまった箸箱だった。あの箸箱は、母親の温かい思い出だったのに。匠真さんも傷つきました。未織さんはもっと。あなたが名入れした箸箱は未織さんに──それともどこかにいるあなたに、いずれ返さなければならないのでしょうか。
水曜祝日の夜に、四人が集合することに決まった。集合をかけたのは、もちろん界である。界は先を見越してこの日にバイトを入れずにおいた。未織さんのシフトを知らなくとも、図書館の閉館時間は知っている。火曜から金曜は八時半まで。土、日、月、祝は五時まで。五時閉館の日がいいだろう。要するに未織さんファーストなのだ。匠真さんも、その日の夜は空いていますと返事をくれて、だりあは、二つ返事でオッケーだった。
横浜駅近くの、個室がとれる店で六時から夕飯を兼ねた話し合いが始まった。
「界くんが居酒屋の個室をとりますって連絡してきたから、だりあちゃんのことも考えてねって。結局私が決めちゃったけど、ここで良かったかしら」
未織さんが、だりあに向かって真正面から微笑んだ。
「ありがとうございます。居酒屋でもノンアルコールの飲み物、いろいろありますから大丈夫だったんですけど。でも、チェーン店の居酒屋よりここのがずうっと嬉しいです。イタリアン好きだし。未織さん、さすがです」
だりあが少しうつむいて、はにかむように笑んだ。
「老舗ホテルのレストランも悪くないとか言ってるから、目的は食事会じゃないと止めたんですけどね」
匠真さんが、未織さんの隣で苦笑いした。
「あら、何でよ? 界くんたちに払わせたりしないわよ。また匠真が誤解を受けるような場所を探して来るより、よっぽどましでしょ」
「はは。俺も匠真さんも、場所選びはへたくそかなってことで」
界が空笑いして、みんな笑顔でとりあえず乾杯した。
「何の乾杯かしら、これ」
未織さんが、赤ワインのグラスをコースターに戻す。
「えっと、界の箸箱は、未織さんたちが捜していた物だとわかったという乾杯ですね」
ノンアルシードルをこくりと飲んだだりあに続けて、
「まだこれからですけど。俺の名入りの箸箱を持ち出して、匠真さんに確認してもらうところまではミッション、クリアです」
一気にグラスビールを半分まで空けた界が、白ワインにした匠真さんに許可をとるように顔を向けた。匠真さんをおさえて未織さんが口を開く。
「匠真が全部、話しちゃったんだってね。私は最初怒ったんだけど……。界くんの箸箱がやっぱり徹志(てつし)の物だったとわかったからには、知っていてもらわないと話が進まない」
協力してね、と界とだりあに微笑んだ。だりあと「もちろんです」と頷きながら界は、──兄弟子さんの名前、テツシさんって言うのか。呼び捨てかぁ。そりゃあ、かつての婚約者だもんな。親父は悠吾 さん で、俺は界 くん 。まさか未織さん、親父とふたりきりの時、ユウゴとか呼び捨てにしてないだろうな。俺も未織さんの声で「カイ」って呼び捨てにされたら……気移りしていると、
「わあ、可愛い!」
だりあの声で我に返った。前菜のピンチョスが来たのだ。ミニトマトとモッツァレラチーズ。アボカドとサーモン。バジルと重ねて薔薇の形に巻いた生ハム。彩り鮮やかだ。いつものだりあなら速攻でスマホ撮影するのだが、今夜は控えている。
「持ち出したままにいかないので、名入りの箸箱は親父の保管場所に戻しました。匠真さんには実物をお見せできたのに、写真ですみません」
界はスマホから撮影した箸箱を呼び出し、裏面を拡大した。
「ここ、右下の縁に『t』があります。『七』の左半分」
じっと見つめていた未織さんは、バッグから薄紫の袱紗を取り出した。おしぼりで丁寧に手を拭きなおし、ゆっくりと開く。一客の箸箱が現れた。
「徹志と対の、私の箸箱」
界も手を拭きなおして受け取り、息をのんだ。
「──そっくりだ」
朱色がかった漆塗り。あえて残した刀痕、浮かび上がる文様は鎌倉彫に共通だが、文様である鶴の飛翔が界の箸箱とそっくりだ。鶴は向かって左を向いている。界の箸箱の鶴は、向かって右を向いている。並べると向き合うように、匠真さんは彫ったのだ。裏側、左下縁に『二』。『七』の右半分だ。だりあも横から覗いて「ほんと、界のお箸箱と間違いなくペアだね」と呟いた。
注文しておいた渡り蟹のトマトソースパスタや、鶏もも肉の香草グリル、野菜たっぶりのオルトラーナピザなどが次々にテーブルに並び始めたので、未織さんはひとまず箸箱をバッグにしまった。
「さ、いただきながら話を進めましょう」
自分を励ますように、明るい声を出した。すかさずだりあが小皿に取り分けながら「飲み物、追加オーダーしますか」と、これも明るく声をかける。
高校生にしてこの気配りはどこから来るのか。界はだりあのそんなところが自慢でもあり、ちょっと怖くもある。
「二客並べられないのが残念ですが、相談と作戦を重ねて前に進みましょう。まず、これを聴いてください」
界はスマホのボイスメモを、未織さんと匠真さんに聴かせた。「食べながらでいいので」と言ったのだが、未織さんと匠真さんの動きは止まった。
「界くんに、いくつか質問があるんだが」
匠真さんが未織さんにちらりと視線を送ると、未織さんは頷いた。
「おそらく俺からの質問とリンクすると思います。どこまで互いに知っているか確認させてください」
界はなかば強引に話し出した。
「匠真さんは、親父の母姉妹や、親父の妹をご存知ですか」
「僕は面識がない。徹志さんは、悠吾さんのお母さんを知っているのではないかと思う」
「徹志さんが、匠真さんの名前を親父の母親に伝えた可能性は?」
「わからない」
「もしも、高富匠真という彫り師名を親父の母親が知っていて、それを親父も知らされていたなら、未織さんの高富姓に反応したはずなんですよ。では未織さん。親父と初めて会った時、すぐに名前を教えましたか」
「フルネームをすぐに教えたりはしないわ。出会ったのは偶然よ。あとから高富姓を知った時も、動揺した感じはなかったから、匠真のことは知らないと思う。出会いのバーで、悠吾さんが箸箱をカウンターに置いて飲んでいるのを見た時の衝撃ったらなかったわ。徹志が持って逃げた片割れが、何でここに? って。店内は照明を落としていたし、私の願望が錯覚させているのかもしれないと焦りながらも、そうとしか見えない。必死で平静を装って、声をかけた。ちゃんと見たかったのに、すぐに大事そうに仕舞ってしまって」
「──だから、親父とつき合って、箸箱を手にしたいと思ったけれど、思い通りに行かないから、息子の俺を使ったって事ですか」
だりあが、界の肘を掴んで「界、言い方!」と軽く睨んだ。匠真さんがだりあと界に向かって、
「悠吾さんは、未織の高富姓に反応しなかった。でも、未織も界くんに渡った徹志さんの箸箱を見た時、必死で動揺を抑えられたわけだ。悠吾さんも未織に劣らない芝居上手だとしたら──」
突然だりあが「はいっ!」と挙手すると、
「わからないことの確認がし合えたからいいじゃないですか。ちょっと整理していいですか。箸箱は、合計三客。匠真さんが彫ったペアの箸箱と、家宝の運慶の箸箱。徹志さんが見つからない限り、運慶の箸箱は行方不明のままの可能性が大きいです。順番として、まず徹志さんの行方を探りませんか。そうすれば、芋蔓式に運慶の箸箱にもたどり着きます。
まずは山形。界のお父さんの実家周辺を探るのです」
一気に喋ると、ノンアルシードルを飲み干した。
「おかわり頼んでいいですか。あ、会計は割り勘でお願いします。私、そのつもりでお小遣い用意して来ましたから」
酒が入ってもいないのに、顔が上気している。界は「だりあの分は、俺が払うんで」と取り消すと、未織さんと匠真さんが「大人が払うものだ」界が「俺は大人です」とごちゃごちゃして、最終的に未織さんが「いいから任せて!」と場を収めた。
だりあのせいで、未織さんは結局どういうつもりで親父とつき合っているのか追及し損ねた。親父の実家を探るってったって、山形、だぞ。それに探るなんて失礼じゃないか。でも、だりあはこの問題に首を突っ込んでしまっているのだから──界は、ひとつ残っていたピンチョスを咥えて、鼻から息を吐いた。
「このままだと、悠吾さんは蚊帳の外ですね」
匠真さんが、丁寧ながらも問いただすような口調で言った。未織さんは黙ったままだ。親父にこれまでのことを話したら、徹志さんとの過去がバレる。未織さんは徹志さんにまだ心があるのではないか。未織さんは、ホタテのカルパッチョを唇に滑り込ませると、追加したグラッパを立て続けにぐいぐいとあおった。
「未織、強い酒はやめとけよ」
匠真さんの諫める声は優しい。未織さんが首を傾けて界を見た。
「徹志は──。自分の箸箱にどういう気持ちで、なかのせかいって彫ったのかな。ねえ、界くんの名前って誰がつけたの?」
「親父です」
「──中の世界」
「え?」
「なかのせかい って、中の世界って読めるわね。私、やっぱり悠吾さんに直接、箸箱見せてってお願いしようかしら。箱の中にあった世界は、誰のものだったと思う? 世界を変えたのは誰?」
もはや、発言が支離滅裂である。界は、匠真さんの工房で聴いた話を思い出した。未織さんは、徹志さんが消えた後に荒れたということ。今でもお酒とかに頼ってしまうのだろうか。未織さんの酔っている姿を初めて見た。図書館で見るテキパキと優しい未織さんとは全然違う。大学の飲み会では、こんなに艶っぽい目つきに変わる子なんていない。斜め前に座る未織さんの唇──オリーブオイルにまみれたそれが、テーブルキャンドルの光を受けてぬらぬらと光っている。
「決めた! 悠吾さんにアタックして、箸箱を手にしてみせるわ!」
未織さんが、危なげに立ち上がってグラスを掲げた。体のラインを拾い過ぎずに、襟ぐりを深くとったニットワンピース。胸元に目がいってしまう。──アタックする、とはどういう意味であろうか。切り込むという解釈でいいのだろうか。死語のバブル語? 界は動揺する心を、思考で抑えようとした。
「中の世界、って言えば」
だりあが、空になった皿をテーブルの端に重ねてから、語りだした。
「仏像内部に、仏舎利やお経を納めたりしますよね。運慶仏って納入品に特徴があるんですって。大日如来像と大日如来座像の内部は、五輪塔と心月輪が胸の位置に入っているそうです」
「なんだよ、そのシンガチリンってのは?」
話に乗って、界が質問すると、
「仏の心に例えられる球体。CTスキャンで透視したら、心臓の位置にあったんだって」
ちょっと得意そうに説明するだりあを見ながら笑んでいる匠真さんは、知っていたようだ。そりゃ、運慶の子孫なのだから、未織さん共々そういう情報には敏感なのだろう。
「運慶は、中身にも凝っていたんですね。心の位置、か」
匠真さんに向けて頷くと、だりあも「あ、当然ご存知でしたよね」と照れ臭そうに口元に両手を添えた。
とろとろになってきた未織さんが気がかりで、界は「それでは今夜はこのへんで」と、収めようとした。
「ちょっと、待って! こうやって集合するのって、なかなか難しいじゃないですか。さっき決めた事を進めておきましょうよ」
未織さんと対照的に、活気を増しただりあが遮った。
「何か決めたっけ?」
「界、山形の久美子叔母さんに電話して」
「ここで?」
「ここで。もう少し詰めた質問をしてみて。もっと踏み込まないと」
だりあが睨んでくるので、界はスマホを手にした。先日登録したばかりの叔母さんのスマホ番号をタップする。だりあが、未織と匠真に向けて「静かに」の形で、唇の前で人差し指を立てた。数回のコールで、叔母さんが出た。
「あらぁ。界くん!」
「先日はどうも。お疲れが出ていませんか」
「ま、すっかり大人の口きいちゃって。大丈夫よ。──兄は、元気?」
「は、はい。とても元気です。それで──」
だりあが、催促するように界の袖を引っ張った。
「あの。この前、俺の箸箱の話、出たじゃないですか」
「箸箱? ああ、はいはい。それが何か?」
界は「と言うのも、最近鎌倉に住む友人と鎌倉彫の話になって──」と出まかせを語り出した。
「鎌倉彫の箸箱に入れた箸で弁当食べてたと言ったら、贅沢だなぁと驚かれちゃって。子どもの時はよくわからずに使っていたけど、今になって価値がわかると、もう一度じっくりと手に取ってみたくなったんです。でも親父が、大切に仕舞っちゃってるんですよ。それにしても、どうしておばあちゃんはあんなに立派な箸箱を俺にくれたんでしょうね?」
「そりゃあ、初孫だったから嬉しかったんじゃない? ──そうだわ。思い出した。兄に箸箱を渡す前に、箸箱の中にメッセージを入れてるところを目にして、洒落た演出ね、って言ったのよ。巻物みたいにくるくると細く巻いちゃったりして」
「──メッセージ? おばあちゃんが? それは俺への?」
「そりゃそうでしょ。界くんの入学祝いに渡すのだもの。見せてって言ったら、もう糊で留めちゃったあとで見られなかったの。かいくん、にゅうがくおめでとう、と書いて丸めたと言ってたわ。あら? 界くん、見たことないの?」
「──覚えてないです。子どもの時だから忘れちゃったのかも。どんな色の紙でした?」
「さあ。普通に白、だったんじゃないかなあ」
「その箸箱って、いつからあったんですか?」
「え? だから、界くんが生まれた時の記念だってば」
「じゃ、俺が生まれてすぐに叔母さんは箸箱、見たんですね」
「──どうだったかしら。最初に見たのはいつだったかしら。知らないうちに母に届いていたというか。同じ敷地内にいたからって、ずっとそばで見ているわけじゃないし。ちょっと思い出せないわ」
「そうですか。つくってくれた彫り師さんの事とか、もしわかったら教えてください。伝統工芸の良さに興味が湧いてきました。大人になったのかな、ははは」
これ以上訊くと不思議に思われかねない。今回はここまでだ。「こちらにも、遊びに来てくださいね」「皆さんによろしく」などと、常套句を並べて電話を切った。
「なんだって?」
「新しい情報は、あったかい?」
だりあと匠真さんが畳みかけてきた。
「──中に。入れたって。俺は、絶対に見たことがない。絶対に」
怒りと好奇心ないまぜ状態で呻く界に、
「何の?」
「何を?」
ふたりは、界に向かって前のめりになり、未織さんは遠い目をして「シンガチリン?」と呟いた。
翌日。界は午前の講義をさぼって家に残った。朝はいつも悠吾が先に家を出る。ドアを閉めて出かける音を階段上から聴き、忍者のごとく素早く下りて、ドアスコープから門を出てゆく後姿を確認した。すぐにでも「調査」を始めたかったが、念のため電車に乗ったであろう時間まで待った。
悠吾の書斎に入る。カーテンは開けずに、全灯調光でスイッチを押す。本箱に飾りのように置かれたアンティークインク瓶の箱。中には瓶でなく鍵が入っている。取り出し、向かいの机に移動する。一番下の引き出し。銀色の丸枠金具中央に、縦に入る鍵穴。差し込むと小さな手ごたえと共に、かちりと開いた。手前に引く。鼻孔に届く埃と漢方薬が混ざったような微かな匂い。大切な書類が集まって放つ匂いは、なんだか寂しい匂いだ。一番奥に箸箱が──。
──無い。箸箱が、消えている。
今日は親父が母の墓参りする日だったか? 持ち出す日だったか? そうじゃない。気づかれた? 界は驚愕した。狼狽のあまり引き出しの中を混ぜ返して探しそうになった。落ち着け。位置を変えてはいけない。そうだ、俺が今、探そうとしているのは「メッセージ」が書かれた紙。白くて箸箱の中に丸めて入る大きさの紙。──違う。これも、これも違う。これでもない。ここには無いのか──。
「何をしている」
背後から、打ち据えるような声がした。反射的に振り向いた視線の先に、悠吾が立っていた。
この記事へのコメント
かがわとわ
ありがとうございます!
物語が入り組んで来たので、今回はこれまでの流れや登場人物の整理が必要だろうと留意して書きました。
私としては「続きが読みたい」と思える話をつくっていきたいし、どうしたら楽しんでもらえるかを第一に考えています。自分に寄せて書くより、読者に寄っていきたい。
だからカラーピーマンさんのコメントは、とてもとても嬉しかったです。
ありがとう~♡
カラーピーマン
第十話 拝読しました。
アップされていたの、気付くのが遅くなり失礼いたしました。
ああ、箸箱は三つあるかもしれないのですね。
それに「七」の文字、ドラゴンボールのようでワクワクします。
それにそれに、もしかしたら亡くなった界のお母さんがかかわっているかもしれない、となると、もう、想像で頭がパンパンで爆発しそうです!!
ありがとう、ありがとう!!
11話が楽しみ過ぎます。