「山形から帰ってきた。寒かったー。暇? 今度の金曜日に匠真さんとこへ行く約束したんだけど、だりあは行かない?」
界からのLINEだった。
「行く。金曜日OK。入試期間で学校へ行っちゃいけないし。でも何しにいくのかな」
だりあは速攻で返信した。
「鎌倉彫りの工房だよ。見させてもらえるなら見てみたいじゃないか。ついでに聞きたいこともあるし」
だりあは、自分の部屋の机の上にLINEの画面を開いたままのスマホを置いた。何て返そうかと思ったが、思い浮かばないので笑顔のスタンプを取りあえず送った。
年末に自分の早とちりから、界にも未織にも不愉快な思いをさせてしまった。見ず知らずの匠真さんにまでわざわざ家まで足を運ばせてしまった。匠真さんに会うのはそのとき以来になる。厚かましいかな。でも、界と一緒なら安心してくれるかもしれない。だりあは、そんなふうに自分を納得させた。
三歳年上だと言ってもあまり界に大人っぽい感じがない。お母さんが事故にあって一人っきりで家の前で遊んでいる小学生の界のイメージが離れない。いつもどこか寂しそうだ。将来の目標というものもないらしく、あくせくしたところがない。勉強熱心だとも思えない。でも、誠実だ。だりあはそれが界の何よりいいところだと思っていた。
それなのに、書店で落ち合って相合い傘でホテルに入っていった界と未織の姿を見ただけで、界が信じられなくなっていた。
だりあは、未織に会った最初のときから未織を敵視していたと思う。未織の持つ大人の女性の色香に自分はとうていかなわない。そして未織の放つ言葉の一言一言がだりあの幼さをあざ笑っているように感じたのだった。
だりあは思った。すべては自分の浅はかな劣等感が原因だ。それがあらぬ妄想を生んだのた。何より恥ずかしいのは心の底の底では界を信頼していないことが界に知られたことだ。臆病な自分の猜疑心は計り知れない。界の誠意を信頼しないで、いったいだれの誠意を信頼するのか。
だりあは机の上のスマホをもう一度取り上げた。LINEの未織とのトーク画面を開いた。去年の12月20日月曜日9時の音声通話2秒の履歴が残っているだけだ。あの時の無言で通話を切った非礼を未織に謝らなければならない。その後の界との関係修復のために冷静な対応をしてくれたことには感謝をしなければならない。そう思って何度かこの画面を開いた。しかし、だりあにはそれができなかったのだ。
「いろいろご迷惑をおかけしまして申し訳ございませんでした」とだりあは文字を打ってみた。界との関係は表面上は以前と同じだ。今なら未織にこの文を送ってもいいような気がする。だりあの指は送信ボタンの上で揺れた。しかし、だりあは送信ボタンを押すことなくスマホの画面を閉ざした。
だりあと界は鎌倉駅に降り立った。匠真が送ってきた工房の住所は材木座にあった。循環バスをつかってもよかったが天気も良く梅の花が満開を迎えていたので、二人は散策を楽しみながら工房に向かった。若宮大路を由比ヶ浜の方へ向かい、しばらくして左に折れた。滑川を越えてまっすぐ進んで再び左に折れてすぐのところにあった。
新しい『鎌倉彫り工房匠真』という看板とともに緑青のふいた銅板の『高富漆器』という看板もでている。
だりあと界は、店の前に佇んで顔を見合わせた。
「未織さんのいとこだから匠真さんの名字が高富というのはごく自然なことかもしれないけど、何か不思議だね」
ドアを開けると、真っ白な壁に黒御影石のタイルを敷いた店内はこじんまりとしているが贅沢で、ガラスケースに入った多様な鎌倉彫りの商品は美術品そのものの雰囲気があった。
界が作務衣のような服を着た若い男に匠真との約束を伝えると、男は背後にあった紺色の暖簾を分けて奥の通路に姿を消した。
程なくして暖簾を分けて出て来たのが匠真だった。ごま塩の五分刈りを包んでいた手拭いを手に丸めながらほほえんだ。
「いらっしゃい。大歓迎です」
「ご無沙汰してすみません」
界が頭を下げた。
だりあは、界の横に並び同じように頭をさげた。
「あの節は、いろいろご迷惑をおかけしまして申し訳ございませんでした」
匠真は、自然に笑ってしまう自分の顔を隠すように額に手をやった。
「いやあ、お若い二人に迷惑をかけたのはこちらの方ですから。……ところで、箸箱は分かったんでしょうか」
匠真は急に真顔になって、界の方を見た。
「父が用心深くて。……今日伺ったのは、電話でも話したように鎌倉彫りの現場を見学できればと思ってお邪魔しました。だりあは工学が好きなものですから一緒に来ました」
匠真は再び笑顔になった。
「うちにも若い女性が働いていますよ。じゃあ、ちょっと見ていただきましょう」
匠真は、暖簾を押し上げて、二人に付いて来るようにと目で知らせた。
案内された工房は店の裏手にある建物で、六人の職人たちがそれぞれの持ち場で作業に没頭していた。
匠真は能弁に鎌倉彫りの工程を説明してくれた。鎌倉彫りの材料は桂がほとんどだという。工程は、大きく彫りと塗りの二つに分かれ、彫りでは図案をトレーシングペーパーに写し取りそれを材料に転写する。彫刻刀はさまざまな種類があるが、最初に使うのが小刀で図案の線を深くなぞって行く。そして平刀、三角刀、丸刀その他様々な彫刻刀を駆使して鎌倉彫り独特の深い凹凸を作っていくのだ。次は塗りの工程。塗りの技法は種々あるが生漆や黒漆や朱漆を何度も塗り重ね、そのたびに布や砥の粉で滑らかにしたり水洗いをしたり乾燥させたりと長い工程があるという。
匠真はすぐ横にいた中年の職人がやっている大きな椀の内側を朱漆で塗る中塗りという工程を説明してくれた。定盤と呼ぶ作業机の上で朱の粉を漆の粘っこい液体に混ぜていく。漆は竹のへら先でゆるい飴細工のようにすくわれては盤に延ばされる。その職人の手つきの鮮やかさにだりあは見とれてしまった。無駄な動きが全く無くへらは驚くべき早さで盤上を踊る。さらに、左掌の上に載せられた大きな椀をくるくると動かしながら右手に持った刷毛で朱漆を塗っていく。色付きの漆は二度と同じ色が作れないそうで、作った朱漆は一回で全部使い切らなければならない。そのため素早く均一の厚みで塗ることが必要なのだという。職人は、自分が塗った椀の内側の表面を室内の蛍光灯に照らしながら何度も確認していた。ようやく満足のいく塗りとなったらしく、壁際にすれられた木製の大きな戸棚にその椀を納め、引き戸を閉ざした。戸棚は風呂と呼ばれていて、適度な温度と湿気を生み出す装置だ。漆は風呂の水分と反応してはじめて固まる。固まるまでに要する時間はまる二日だというが、これでも塗りの工程の極々一部に過ぎない。匠真の説明は、聞けば聞くほど詳細になり熱を帯びてくる。だりあは塗りの工程の複雑さに魅了されてしまった。
工房の一角になる匠真の部屋に二人は案内された。ここは匠真の仕事場でもあるようで、作業机が壁の方に二つ鉤型に置かれていて真ん中に座布団が据えられている。格子の障子からやわらかな日差しが入り畳に広がっている。
だりあと界は座布団を勧められた。
「すごい技術です。感動しました」
だりあは目を輝かせて言った。
界はだりあの言葉に頷いて、匠真に聞いた。
「鎌倉時代から続く伝統なんてすね。表に高富漆器という古い看板がありましたが歴史を感じます」
匠真は、界の顔をのぞき込んだ。
「ああ、気が付かれましたか。もともとここの店は高富家の店なんですよ。先代は伯父さん。つまり未織さんのお父さんでした。私は大学を終えても働く気がなかったものでぶらぶらしてしていたんです。そんな時、ちょっと興味をひかれましてここに遊びに来たんです。伯父さんの仕事ぶりを見ているうちに自分の血の高ぶりを感じたんです。血筋というのでしょうか。未織さんは職人になる気はなかったんで、伯父さんは弟子を育てて未織さんの婿にしようと躍起になっていましたね。……でも結局それは実現しませんでした。それで私がかわって取り仕切っているという訳です。看板を二つ掲げているのはそんな訳です」
界は匠真の目を見返し、頭を掻いた。
「あのう、箸箱のことなんですが。言い難いんですが、未織さんの言うことが私には理解できないことがあるんです。匠真さんはうちの父が持っている箸箱で何を確認したいんですか。それも父には秘密にしなければならない。それが理解できないんです。それに、運慶が作ったという箸箱も」
匠真の表情が急に険しくなった。
「えっ、未織さんは運慶の箸箱を何と話したんです」
「また余計なことを言っちゃったかな」
界は顔をしかめた。
「いや、そうじゃないんだ。運慶の箸箱なんて、本物かどうかもはっきりしないものです。私は忘れようと思っていたくらいです」
だりあが鋭く反応した。
「調べると時代が合わない。箸箱に入れて大事に扱うような箸はもっと時代が下ってからできたようなんです」
匠真はだりあを見た。
「お嬢さん、よく調べたね。でも、あの箸箱は仏具として伝えられたものなのです。日常使いじゃない。だから本物である可能性は十分にある」
匠真は、首を傾げて何かを考えている様子だった。やがて、二人の顔を交互に見た。
「本来は私の口から言うべきことではないんだが、話さないときっと私と未織さんが何をやっているのかが分からないでしょう。また誤解を生んでしまう。お二人を巻き込んでしまった以上は知ってもらうべきなんだしょうね」
匠真はゆっくり語り出した。
匠真には五歳上の兄弟子がいたという。匠真がこの店の弟子入りしたとき、兄弟子は若手で一番の有望株であった。先輩たちも一目置いていた。兄弟子自身も自分の技量を自覚し、それを誇っていたという。時には技術面では師匠より自分の方が上だと高慢なことを言った。それでも彼が仲間外れにならなかったのは、どこか愛すべきキャラクターだったためだった。その頃未織は司書になるための勉強中で、家事手伝いをしていた。師匠はよく忘れ物をした。すると未織が逗子の自宅から忘れ物を届けに来る。兄弟子はそれを察すると仕掛かり中の作業があっても未織の顔を見に行く。逆に師匠が工房に忘れ物をしたと知ったら兄弟子は志願して自転車で逗子に向かった。未織に対する自分の思いを隠したりしない。そんな姿が仲間には好ましく見えた。しかしあえて師匠は気づかぬ振りをしていた。全ては二人が決めるものと思っていたらしい。
兄弟子の熱心さに若い未織は心を動かされ、二人は付き合うようになっていた。師匠が弟子の中から未織の連れ合いを探そうと思っているらしいことは明らかだったし、兄弟子が未織と同じ歳というのも条件には合っていたので、周りのものもいずれ二人は結婚するのだろうと噂していた。
兄弟子は、入ったばかりの匠真を可愛がり本当の兄弟のように作業机を並べて仕事をしていた。匠真も兄弟子がいとこの連れ合いとなり店の主となるのだろうと思っていたという。ところが、匠真が弟子入りして五年後に師匠の肺に癌が発見された。末期状態だった。そして店を誰に任せるかという段になったとき、指名されたのは匠真だったのだ。
兄弟子がそれに反発し師匠の関係が悪化した。しかし最後には「さすがに鎌倉仏師の子孫だ。才能がある」と皮肉を言いながらも匠真を祝福しするとともに自分と未織の結婚の記念に揃いの箸箱を作ってほしいと言ったという。桂の一木から切り出した柾目の厚い板の真ん中下方に、結婚する平成七年の「七」の字を彫り、その文字を縦に二つに割ってほしい。その字を箸箱の裏面にし、二つに割った板それぞれで箸箱を作ってほしいという注文だった。ところが、兄弟子は出来た箸箱の片割れを受け取ると姿を消してしまった。同時に高富家伝来の運慶の箸箱も消えてしまったのだ。
「運慶の箸箱が盗まれたのですか」
界が叫んだ。
「多分そういうことでしょう。結局兄弟子のプライドが私の配下になることを許さなかった。それだけでなく、高富の伝統を憎んだんでしょうね。兄弟子がいなくなって、一時未織さんの言動が変になったときがあった。伯父さんが必死に探しても箸箱が見つからなかったにもかかわらず、未織さんは家にしまってあるってきかないんです。それに人が変わったように遊びだして。ちょうどバブルで世間が浮かれていた時ですから目立たなかったけれど、あの時の未織さんはかわいそうだった」
「でもスマホの写真はどうしたんでしょう」
「無くなる前の写真ですよ。私も持っています」
匠真さんは作業机の下から桐箱を取り出して蓋を開けた。匠真さんが手渡してくれた写真に二人は見入った。
「これだ」
また界が叫んだ。
「でも、なぜ父に隠して箸箱を確認しなければならないんですか?」
「私も未織さんも怖いんです。お父さんが持っている箸箱が私の作ったものだとしたら、あなたのお祖母さんに渡したのは兄弟子だということになるでしょう。兄弟子は未織さんがはじめて心を許した人でした。私にも原因があったことになりますが、その人の手ひどい裏切りで、未織さんは芯を失ったようになっていましたから」
だりあの目に涙があふれてきた。落ちた涙が畳を濡らした。だりあはハンカチで急いで拭いた。
「すみません」
だりあはしゃっくりを上げた。
「すみません」
界がだりあの背中を抱いた。
だりあは泣きながら頷いた。まつげに涙をいっぱいためながら匠真に笑いかけた。
「変ですね」
「いいえ。何も変じゃないです」
匠真は立ち上がって部屋を出ていった。
しばらくして戻ってくると、二人の前に茶を差し出した。
「うっかり、お茶を出すのを忘れていました」
だりあは茶を半分ほど飲んで、茶托に戻した。
「すみません。未織さんがかわいそうで身につまされてしまいました」
匠真さんはだりあの言葉に頷いた。そして、界の方を向いた。
「お父さんに内緒にしておきたいのは、これまで探していて見つからなかった兄弟子の消息が分かるかもしれないという期待。でも、見つかったら見つかったで怖いのです。今どうしているのか。あるいはまた逃げられるのではないか。運慶の箸箱がどうなっているか。真贋は別として高富家に何百年か伝わったものには違いなく、盗られたから失くなったではすまないのです。先代は亡くなるまで悔やんでいました。未織さんも同じだと思います。お父さんは未織さんと同じ年齢でしたよね。もし、私の作った箸箱だとわかったら、もしかしたらお父さんは兄弟子とどこかで会っているかもしれない。知っているかもしれないと思ってしまうのです。兄弟子も山形出身でしたから」
界は唇を引き締めて聞いていた。ちょっと躊躇した後、持ってきた手提げバックを開けてタオルで包んだ棒状のものを匠真に差し出した。
「どうぞ確かめてください。今日中に持ち帰れば父にばれませんので」
匠真がタオルを開くと、それは天然木の箸箱だった。
匠真は手に持った箸箱を上から下へ一見した後、覆して裏面を見た。そして、頷いた。
「私が作ったものに間違いありません。名は兄弟子の彫ったものです」
匠真は、手に持った箸箱に一礼した。そして、名前の彫り跡を凝視した。
「兄弟子は彫りが得意でした。これは見事な彫りです。迷い無く一回で彫り上げている」
匠真の眼差しは厳しかった。
「ですが、通常は塗り上げた製品に名をいれることはありません。ご覧になったように大変な工程を経て出来た製品です。それを傷つけるかのようなことは職人でしたらできません」
匠真は、黙ったまま五分ほど名前の彫り跡を眺めていた。しかし、いつまでも眺めてはいられないというようにタオルに丁寧に包んで界に返した。
材木座海岸に来た。国道を横切り、浜に下りるための階段を下りる。渚までは遠い。横一列に崩れる波頭の先に暮れ方の水平線があった。
だりあと界は手をつないで浜を歩いた。
「箸箱なんて大した道具じゃないと私は思うの。箸は大事よ。人間の手の延長にあって、人間の手じゃできないことを実際やるんだから。でも箸箱は二次的な道具。天然木であろうとプラスチックであろうと機能は同じ。でも職人の現場を見ると全く違う現実がある。なぜあんなに情熱を傾けるの。熟練の技はすごいけれど、何がすごいんだろう。並みの人間業じゃないからかなあ。運慶は断トツですごかったのかなあ。でも、すごいというのは道具の機能じゃないよね。機能にからみつく藻のような別のもの」
「だりあの疑問がまた始まったね」
「藻のような、情念のようなもの。いやだな」
「だりあは苦手かもしれないけど、いろいろな人の思いが絡むんだよ。しかたないよ」
二人は黙って砂浜を歩いた。
しばらく経ってから、だりあは身を寄せて界の体に腕を回した。
「今日ここに来てよかった。私どうしても未織さんという人が嫌だったの。でも、少し違ってきたかもしれない」
だりあは匠真の話を思い出した。そして感情的になるのをこらえるように空を見上げた。
カモメが飛んでいる。
だりあは口角をあげしっかり笑顔を作ってから、今度は界の顔を見上げた。
この記事へのコメント
かがわとわ
いつもありがとうございます。
謎の解明はこれからです。(^▽^)
いったいどうなるのでしょうね。書き手たちもわからない……。
どうなる??
お楽しみに。(^▽^)
カラーピーマン
第9話拝読いたしました。
バブルごっこ、未織さんは単純に楽しんでいたと思っていましたが、けっこう精神的にきつい遊びだったようですね。
未織さんの過去と運慶の箸箱の秘密が明らかになってきましたが、今度は界のお父さんと匠真さんの兄弟子の関係が!!
ん~、謎ですね。
それと、界とだりあのLINEの台詞、短く切るところ、とても自然でした。だりあが大人の未織さんに嫉妬するところも、少女心あるあるでした。
次回を楽しみにしています。ありがとうございました。