第8話 山形の箸箱 藤村邦(絵・芦野信司)

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 悠吾が銀色のアタッシュケースに書類を入れ、ロッカーからトレンチコートを出して帰り支度を始めると、同期の中年OLが「今夜はお父さんが食事係かしら」とからかうような口調で問いかけてきた。フロア出口に向かって歩いていると「売れてるシングルファザーは、定時退社でいいよな」と転職組同期が悠吾の肩をポンと叩いて皮肉めいた言葉をかける。悠吾の部長昇格は本社のダイバーシティ戦略にのっただけで、プロマネの能力が買われたのではないことは誰もが承知していた。異例の昇格人事に対してフロアの仲間の嫉妬や羨望を受けるのは仕方なかったが、以前よりも居心地が悪くなったことは確かであった。
 西新宿のオフィスビルから新宿駅までの北通りをコートの襟を立てて歩いていると、昇格の後から肥大してきている居場所を失ったような感覚を、都心を吹きぬける乾いた風が刺激した。親子連れやカップルが笑いながら前から歩いて来るのを見ると、妻と息子が一緒だった時代が思い出されてしまい、殆ど話しもしない息子だけの家に帰る気持ちはすっかり失せてしまった。 
 先週開店したばかりのバーに寄ろうと思い、地図を確認するためにスーツの内ポケットからスマホを取り出した時、着信音が鳴った。画面を見ると山形に住む妹の名前が出ている。嫌な予感がして電話に出た。
「和子叔母さんが、昨日亡くなったの」と言う妹の声はいつもと変わらない。
「母の七回忌の時は元気だったじゃないか」「突然だったのよ、脳出血」
「叔母さん、界と会いたいと言ってたな。今年の夏は一緒に行こうと思ってたんだ」と息子に確認もとってない予定を妹に告げた。
 悠吾が継がなかった実家の薬局は婿に入った夫の才覚によって繁盛し、今では山形県内に4つのチェーン店を持つまでに成功している。界は、中学を卒業するまで夏休みになると1人で山形に行っていた。悠吾夫婦が交通事故に会った後、加奈子の両親は娘を失ったショックで界への対応が出来なかった。悠吾が入院していた1ヶ月、山形の母の家に預けたのである。実家の敷地内には妹夫婦と娘二人が住む家が建っていた。界の従姉妹になる2歳下と5歳下の女の子は界とよく遊んだ。母の妹である和子叔母さんの家は酒田の海沿いにあり、界や界の従姉妹達は「和子ばあば」と叔母を呼び、毎夏、海水浴のために1週間くらい泊まるのが慣例だった。
「兄さん、葬儀に来れる?昇格で忙しいんでしょ。シングルファザーの記事読んだわよ」
「会社イメージための部長昇格だよ」
「休みが取れるなら来てよ」
「世話になったから、オレだけでも行くよ」
「通夜は2月11日、葬儀は2月12日、界君も連れてこられたら連れてきて、娘達が会いたがってるし」
「行かないと思うけど、声はかけてみるよ」

 家に帰ると界はソファの上で、スマホのドラゴンクエストをやっていた。スマホに目を向けたまま「親父、晩飯はカレーをつくってある。僕はだりあと食べてきた」と言った。
 最近の2人には事務的で表面的な会話しかない。
「和子ばあばが、亡くなったんだよ」と悠吾が言う。
「え、死んじゃったの」と驚いた声がしたが、悲しみや落胆といった感情はそこにはない。
「通夜が明後日、その翌日が葬儀だ。オレは行ってくるが、界はどうする。小さい頃は遊んでもらったろ。俺だけで行ってくるよ」
「僕も行くよ。世話になったからね」と界からは意外な言葉が返ってきた。

 2月11日の午後に酒田に行って3日間滞在することにした。目的はどうであれ、息子と2人で遠出をするのは加奈子が亡くなって以来、始めてのことである。
 酒田までの行き方は3つある。ひとつ目は飛行機で山形空港まで行き酒田まで列車でいく方法、2つ目は新潟まで行き羽越本線の特急いなほに乗り換える方法、3つ目は秋田まで行き奥羽本線で行く方法であった。交通事故にあった2年後、飛行機で山形空港まで行ったが、気流に巻き込まれ激しい不安発作が出たので、それ以来は電車を使うようにしてきた。悠吾が米国への昇格転勤を希望しない理由はシングルファザーだけでなく飛行機嫌いもあった。どちらの地上コースも新幹線を降りてから2時間近く在来線に乗ることになる。悠吾は新潟から行くコースを選択し、東京駅で待ち合わせをして11時40分のとき319号の指定席に乗り新潟で乗り換え、いなほ7号で酒田にいく予定にした。

 新幹線は関東平野の平らな道を1時間くらい走った後に、清水トンネルに入る。長い闇を抜けると真っ白な雪景色が現れた。視界が開け窓の外が明るくなるとスマホに熱中していた界が顔を上げて口を開いた。
「ここ越後湯沢でしょ、川端康成の雪国の舞台。川端はここに滞在して雪国を書いたんだよ」と本好きの界が答える。
「そうだったな。3歳の時にオレと一緒に来たのを覚えているか」
「覚えてるわけないじゃん」と、つっけんどんに言って界は窓の外に視線を向けた。
加奈子と母の折り合いが悪く、界を山形に連れて行くのは悠吾の役割であった。「どうしてママはおばあちゃんちに行かないの」と言われる度に「ママはおばあちゃんと仲が悪いんだよ」とだけ言った。
 新幹線はトンネルを出たり入ったりした後、雪化粧の平地を走り新潟駅に着いた。
 新潟で50分ほど待った後、特急いなほ7号に乗った。海側のA席とB席である。悠吾は着替えの入ったボストンバッグを荷棚に置きながら「界は窓際にすわれよ、海が見えるぞ」と機嫌をとる。
「いいよ、親父が座りなよ。ひさしぶりに一杯やりたいんだろ」と界は答える。
 最近感じている界との距離感の裏に、未織がいることを悠吾は薄々理解していた。私が未織と会っていることを心地良く思ってないのは母への愛着と忠誠心なのだろう。
 村上市を過ぎると日本海が目に入ってきた。悠吾は重い灰色の雲に覆われた冬の日本海を見ながら、結婚前に加奈子と2人でこの電車に乗り山形に行ったことを思い出していた。
「太平洋とは違うわね、光が背中から射すんだ、波の光り方も違う、空も重いなあ」という日本海を見た時の妻の言葉、あなたと私は生まれも育ちも違うと言われたような気持ちになった。あの時の言葉が、今でもしょっぱい思い出として悠吾の心に残っている。
「ほら!界、海が見えたぞ」と声をかけてみるが、あいからず何も言わずにスマホゲームをしている。
「お前も飲めよと」と缶ビールを袋から取り出した。界はスマホに目を向けたまま、左手で受け取ったビールをテーブルの上にそのまま置いた。
 悠吾はプルトップをあけて新しく出たアサヒビール復刻版を飲み干す。
 通路をあけた隣の座席には中年カップルが並んで座り、楽しいそうに弁当を食べていた。
「ねえ、あなた、あつみ温泉のホテルでのどぐろが食べられるの」「おれは、山形牛が食べたい」夫らしき男の前には空になった〆張鶴のコップ酒があった。
 車窓からは降雪地帯に特徴的な片側急勾配の屋根を持つ家々が見える。その向こうには冬の日本海が見え隠れしていている。妻を神奈川に置き山形の母の家に一人で帰る時に感じた孤独な思いが蘇ってきて悠吾を陰鬱にした。
 仲の良い中年カップルはあつみ温泉駅で降りた。
 悠吾は新潟駅で買った「鶴亀」のアルミ缶コップ酒を取り出した。鮭の酒浸しを取り出す。酒浸しの説明には「日本酒に5分くらい浸して食べると美味しい、そのままでもいけます」と書いてあるので、そのまま悠吾はかじった。しょっぱい鮭浸しをたべながら純米酒特有の芳香とキレを味わっていると、未織のことが浮かんできた。ここに未織がいたらと思う。
 ――日本海の見える温泉。温泉に2人で湯船に入り、日本酒を飲みたいだけ飲む。はだけた浴衣から見える未織りの豊満な胸、そして布団の上でからみあう。未織が声を上げて達する。
 昼間の疲れがでていた悠吾は、未織との温泉旅行を空想しているうちに眠ってしまった。
「親父、着いたよ」と界の声がした。
 悠吾親子は駅前ホテルにチェックインして通夜に向かった。妻との死別の後からこうした場所は苦手だ。悠吾は念のために田中医師からもらった安定剤を飲んだ。通夜には20人くらいの親戚や知人が参加していた。親戚に簡単に挨拶して「また明日宜しくお願いします」と言いホテルのツインの部屋に戻った。界は相変わらずスマホをいじっていて悠吾と話しをしない。
 翌日の10時から葬儀が始まった。葬儀は酒田市のセレモニーホールで行われ、スタッフが何もかも対応してくれていた。50人くらいが参列した葬儀の最後には、市内で内科医をしている息子が「母がお世話になりました」と言って頭を下げた。 
葬儀の後の「お清めの会」では、悠吾と界はテーブルの前の方に並んで座らされた。目の前に姪2人が座っていた。以前会った時には、あどけなさが残っていた2人も、すっかり女子高生と女子中学生になっている。
「界君、だりあちゃんと続いているの」と高校生になった姪が話しかける。
「うん、まあね」
「そっちは彼氏とかできたの」
「女子校だから全然無理。大学は東京か神奈川に行くつもりだから、界君、友達を紹介してね」と笑ってる。
 気持ちここにあらずといった雰囲気の界が、参加者に酌をして席に戻ってきた妹に口を開いた。
「叔母さん、お婆ちゃんがくれた箸箱があったでしょ。あの箸箱って値打ちがあるの」
「箸箱?なんだっけ、それ」と、妹は自分の椅子に座りながら答える。
「なかのせかいと名前が彫って掘ってある古い木の箸箱だよ」
「ああ、あれ、母があげたものね。その箸箱、まだ持ってるの?本当かどうかわからないけど、運慶の流れを組む人が彫ったって話だわ」
 悠吾は界が箸箱に関心を持っていることを不思議に思った。
「界が生まれた記念に鎌倉彫りの若い彫り師に頼んだらしい。小学校で使う箸箱がほしいと兄が頼んできたので、なかのせかいって名前を後から入れたのよ。もう捨てちゃったんじゃないの」
 悠吾が口を挟んだ。
「お袋がくれたんだ。オレが大切にしまってるよ。それより、何でお前、今頃、箸箱の話をするんだ。中学に入ってから全然使わなくなったじゃないか。今頃そんなことを言うのは、誰かの影響なのか?」と悠吾が質問すると界の表情は硬くなった。
「別に、そうじゃないけど、だりあが、ああいうものに興味があるから」
「山形は運慶と関係が深いのよ。界のおばあちゃんは山側にある長井市から酒田に嫁いできたんだけどね。なんでもそこにある普門坊という寺の観音は運慶に彫らせたと言われている。山形には他にも何カ所か運慶や運慶の流れをくむ人が彫ったという仏像があるのね。湯殿山の仁王門もそうだったと思う。昔から酒田は最上川の船運が盛んで、大阪や京都、瀬戸内からの品物も入ってきたのね、運慶もこの地になんどか足を運んで、その弟子達が作ったと言われている」

 葬儀の夜、妹の家に呼ばれた。かつて悠吾が育った実家はそのままにしてあり、妹が管理している。案内された妹の家の居間のちゃぶ台には、玉こんにゃく、芋煮、山形だしなどの故郷の味が置かれていた。山形で一番人気だという日本酒を妹が持ってきた。妻が亡くなってから付き合い程度にしか飲まなくなったが日本酒は嫌いではなかった。
 出てきたのは浮世絵のラベルの一升瓶で、ラベルには「くどき上手」と書いてある。界のコップにもなみなみと日本酒が注がれた。故郷の料理を食べながら飲む日本酒は久しぶりだった。
 最初は、和子叔母や界が小学生の頃の海水浴などを話していた。界も今日はめずらしく酔っている。息子が酔う姿を見るのは初めてかもしれない。
 家で晩酌するのはいつも自分だけだった。
酔った妹は「兄さん、界君も大学生だし、再婚とか考えないの。付き合っている人とかいないの。だれもいないなら良い子がいるよ。ほら、高校が一緒だったキョンちゃん、今、未亡人よ」
 悠吾が高校時代に交際していた子がキョンちゃんだが、当時の高校生は二人で喫茶店にいくだけで付き合っていると言われた。キョンちゃんという名前は記憶にあったが顔の造形はまったく浮かばない。再婚という言葉で連想したのは未織である。
 バブルごっこの後から未織に対する欲求が高まっていた。酔ったあの日、未織の唇を吸い胸をまさぐった時の突き上げるような情動が今でも記憶に残っている。あの時、未織の方から悠吾のズボンの中に手をいれてきた。あれ以来、未織を色のある「女」として見ている自分がいる。もっと深い関係になりたいと思うようにもなった。ベッドの上で裸のまま絡みあって、未織の中で終わりたいと空想することも増えた。しかしホテルに誘うまでの勇気は悠吾にはない。独身同士だし、性的関係だけの「大人の付き合い」もあっても良いはずだ。セフレという関係を続けている後輩も知っている。しかし女性経験が加奈子しかなかった悠吾にとって、他の女性と性的関係になることは容易ではない。「女」を意識してから悠吾の未織への態度や行動は逆にぎこちなくなっていた。バブルごっこで再燃した悠吾の情愛は、未織の身体の前で、もたもたしている。 
 くどき上手の一升瓶が空いた。酔った悠吾は界に声をかけた。
「なあ、もしもオレが結婚したら、界はどうする、だりあと結婚するのか」
「だりあなんか子どもだよ。親父は再婚してもいんだけどさ、でも」
「でも何だ」
「未織さんは駄目だよ」
「どうして」
「あの人、よくわからない」
「確かにそうだな」
「親父はどこで未織さんと会ったのよ」
「未織さんと最初に会ったきっかけは箸箱だ。ママの墓参りの時に行ったバーに未織さんがいて、箸箱をカウンターにおいてお婆ちゃんやママのことを思って飲もうとしてたら隣にいた未織さんが声かけてきたんだよ。界の箸箱と同じのを私も持っているってね。その話はそこで終わったけど。運慶と繋がるとは驚きだ」
「その箸箱はどこにあるの」
「秘密だ」と悠吾は言った。
 

この記事へのコメント

  • かがわ

    カラーピーマンさま
    ご多忙のところ、いつもコメント感謝です!!!
    ヾ(*゚▽゚)ノ
    2022年07月20日 22:24
  • カラーピーマン

    藤村 様
    第8話拝読いたしました。
    父と子、未織さんをめぐって真向から勝負、と思いきや未織さんはよくわからないという界にお父さんが同調して、くすっとしてしまいました。
    「くどき上手」ネットで調べてみたら、本当にありましたよ。ラベルの浮世絵の女性が色っぽいですね。未織さんを想像してしまいました。
    いよいよですね、運慶の箸箱へとどのように話が進んでいくのか、次回が楽しみです。
    ありがとうございました。
    2022年07月20日 21:34