「この前は、驚きの連続でした。実はそれがきっかけというか、何というか、お願いしたい事が出来てしまいまして。会っていただけますか」
入力した界の手が止まり、小さく唸って宙を睨んだ。
「先日は、貴重で刺激的な時間となりました。実はその件で、折り入って相談したいことが」
打ち直して「堅苦しすぎるかな」とひとりごち、元の文に戻してえいやと送信した。未織さんとのLINE開通一通目なので、緊張する。問題解決への道は、これしかない。未織さんを仲立ちに、匠真(たくま)さんからだりあに説明してもらうのが一番だろう。
窓を開けて、はす向かいの赤井家をうかがい見る。昨日まで玄関ドアを飾っていたクリスマスリースは外されている。毎年恒例、おばさんのハンドメイド。子どもの時から、あれが外された直後は、ぽかんと寂しいような気持ちになる。クリスマス、終わっちゃったな。二階のだりあの部屋は、カーテンがぴったりと閉じられている。中にいるのだろうか。日曜の昼間だし、冬休みに入ったしでどこかに出かけているのかもしれない。そうであって欲しい。カーテンの向こうで沈んでいて欲しくない。イブに会う約束だっただりあからのLINEは、先週の土曜で止まったままだ。言い分をきいて欲しくて返したメッセージには、二件だけ既読がつき、そこから先は何度送っても既読がつかない。ブロックされたに違いない。徹底的に避けられている。近所で出くわす機会はあったが、下を向いたまま小走りですれ違われた。いっそ、このまま別れてもいいのかも知れない。取り付く島がないのだから、やけにもなる。待て。このまま終わったら、ビンタの意味を認めたことになるじゃないか。そもそも、だりあはどうしてあの場所にいたのだろう。つけていた? どこから? なぜ声をかけてくれなかった?
「そんなに離れていると、肩が濡れちゃうわ」
雨脚が強まり、俺の腕をとった未織さん。
「ごめんなさいね。傘、持ってくればよかった」
歩くテンポに合わせて柔らかな胸がぽよぽよと腕にあたった。雨の匂いに混じって、あの甘い香りがした。あれを──見ていたのか? それなら誤解を招きかねない。
だりあ。俺の話を聴いてくれよ。界は空を仰いで投げるような溜息をついた。
──スマホに着信があったのは、先週の金曜日だった。覚えのない番号だったので無視していると、留守録に喋り始めた。
「未織です。申し訳ないけど、どうしても連絡したいことがあって。リメイク講座の時の界くんの受講者控えから──」
慌てて通話をタップした。
「あ、あの。はい。あの」
「界くん? ごめんね。登録情報を私的に使うなんて、職務違反なんだけど。界くんは、ほら、それだけの知り合いじゃないでしょ」
未織さんの特徴的な柔らかく言い含めるような声。それだけの知り合いじゃない──誇らしい反面、暗に父親のことを言っているのかと瞬時に気持ちが暗転する。波間で上下する浮標のような自分が情けない。
「協力してもらいたいことがあるの。箸箱の事で。界くんに会いたがっている人がいる。急だけど明日、会える?」
「箸箱の事? 何がですか。誰がですか」
「詳しいことは、そこで」
未織さんが待ち合わせの場所に指定したのは、彼女の勤める図書館の最寄り駅モールにある書店だった。そこから、もうひとりの人物が待つ場所に向かうという。
「土曜は五時で閉館だから、そのあとの諸業務を済ませて六時過ぎくらいには行けるわ」
「俺はバイトがあるので、その時間はちょっと──」
「そう。残念だわ。なんとかならない?」
「え~と。なら、頼んでシフトを入れ替えてもらいます。六時過ぎよりは少し遅れると思いますが」
かなり強引な未織さんのペースに巻き込まれて返事をしていた。親父に内緒で連絡してきたことに訝りつつも、チャンスを逃さず勝負に勝ったような高揚があった。
合流場所だと連れて行かれたのは、小さなビジネスホテルで、待っていたのは未織さんのいとこだという男性だった。同じく運慶の血を引く鎌倉彫職人の匠真さん。五分刈りのゴマ塩頭が、端正な顔立ちに似合っていた。「私より五つ下」と紹介した未織さんの言葉に続けて「ですから僕は五十です」と生真面目に微笑み、未織さんから「やめてよ!」と小突かれていた。未織さんが父親と同い年というのは衝撃だった。同世代だろうと思ってはいたが、同い年! 親父はそれを知って……いるんだろうな。
匠真さんがとってくれていたビジネスホテルは、デイユースホテル──いわゆる時間貸しホテルでもある。匠真さんとしては、駅近で他聞をはばかる話が出来る場所として決めたわけだが、未織さんは「料理屋の個室にでもしてくれれば良かったのに」と意に沿わなかった様子で「箸箱の話が済んだら、このあとwホテル五階のレストランバーで夜景を見ながら食事しましょう。匠真、いいわね?」とてきぱき話を進め、焦る界に目をやって「当然こちら持ちよ」と微笑んだのだった。界がだりあからの着信「いまどこなの。私はいまUホテルの前……」に気づいたのは、込み入った話が済んだ直後だった。「すみません。急用が入りました」と頭を下げ、食事に行かずにその場を後にした。思えば、すぐに返信すれば良かったのだ。悩みすぎて翌日に返信したことが、疑惑に拍車をかけたに違いない。今更、だ。あああ。
思考がもやもやとあっちに行ったりこっちに行ったりしていると、LINEの着信音が鳴った。
「箸箱、手に入ったの?」
未織さんからだ。
「すみません。そっちはまだです。別件でお話があって」
「了解。今、休憩時間だけど、複雑そうだから帰宅したら連絡するわね」
未織さんから、親父が持っている箸箱を持って来て欲しいと頼まれている。なぜ直接親父に頼まないのかは、謎だ。匠真さんと確認したいことがあるので、それが終わったら返すから、秘密裏に進めたいと。東北のおばあちゃんからもらった界の箸箱を、親父が母親の墓参りの度にこっそり持参しているのは知っている。問題はどこにしまってあるか、だ。親父とギクシャクしている今、昔使っていた箸箱はどこ? と訊きにくい。図書館で未織さんから聞かされように、未織さんは運慶作の箸箱を持っていることを、親父に隠している。未織さんはそれと別の箸箱──天然木の名入りの箸箱を持っていることは、親父に教えているという。未織さんが持っている天然木の箸箱はひとつきりであると思い込ませた目的は何か。親父が知っている箸箱は、匠真さんがつくった箸箱なのだそうだ。もしかしたら、東北のおばあちゃんがくれた箸箱も匠真さんの作ではないかと聞かされた。もしそうなら、未織さんの持つ匠真さんの箸箱と界の箸箱をびったり二客並べた時に、ある文字が読める細工彫りをしてあると言うのだ。そういえば箸箱の裏側の端っこに何か記号のようなものが彫ってあったような無いような……。匠真さんの箸箱と、運慶作という箸箱と、いったいどういう繋がりがあるのか。東北のおばあちゃんは数年前に亡くなってしまっているし、おばあちゃんが山形に嫁ぐ前の話をちゃんと聞いたこともない。匠真さんが言うにはおばあちゃんのくれた箸箱に「なかのせ かい」と名入れ彫りした人物は別だという。匠真さんは入れていない。それなら、名入れをしたのはどの段階で、誰が入れたのか。なぜ、界の箸箱にそんなにこだわるのか。
夜に未織さんから連絡があり、匠真さんと三人のグループLINEをつくってチャットをすることになった。
「いきなり帰っちゃって、失礼しました。その理由ですが」
チャットが始まると、界はすぐさま本題に入った。ふたりとも界がスマホを確認したとたんに顔色が変わって帰ったので、不思議に思っていたようだ。界は、未織さんとあのホテルに入るところを、だりあが目撃したのだと伝えた。匠真さんにだりあは彼女であり、未織さんとは顔見知りだと説明した後、あらぬ疑いをかけられていて、釈明しようにも、まったく話が出来ない状態にある。と思い切って告白した。よって、未織さんからだりあに実際のところを説明してもらうのが一番だが、未織さんひとりからだと、都合の良いつくり話をしていると思われかねないので、出来れば匠真さんと一緒にだりあへ説明していただけないかと頼んだ。すぐさま匠真さんから「僕のせいで、大変申し訳ないことになってしまった」「誤解を招いてしまったことに責任を感じる」と真摯な言葉が返って来た。未織さんが「匠真は手先は器用だけれど世渡りが不器用だから、まず私がだりあちゃんに電話しましょう。それから匠真を交えて会いに行くというのはどう? 彼女の連絡先教えて。一応、住所も」と まとめてくれた。界はグループLINEに、だりあの連絡先を入力した。
翌月曜日の昼過ぎ。未織さんからまたLINEが来た。
「電話に切り替えていい? 今日は月曜だから休館日なの。そっちは、今大丈夫?」
「はい。今は家にいます」と返すと、すぐにLINE電話が鳴った。
「今朝、だりあちゃんに電話をかけてみたのだけれど、未織ですと言ったら、数秒間無言。そのあとブチッと切られたわ」
「そうですか……。すみません」
「界くんが謝ることないのよ。原因はすべてこちらにあるのだから。だりあちゃんの気持ちを考えると、私が電話したのは軽率だったわ。まったく長く生きてるおばさんなのに、
これじゃあ全然……箸箱のことで少し焦り過ぎて、界くんにもだりあちゃんにも……」
未織さんの声が沈んでいる。
「そんなこと、ないです!」
思わず界は声を張っていた。
「未織さんは、悪くないです。俺がだりあの誤解をすぐ解かなかったから。悪いのは俺です。あの、俺、なんだかよくわからないけど、未織さんが箸箱のことで何か躍起になっているのがわかります。わからないけど、わかるっていうか、わかりたいっていうか。ああ、何言ってんだ、俺。だから」
未織さんの正当化に拍車がかかる。界は、今の自分こそよくわらない。
「界くん」
「はい?」
「ありがとう。──あなたは、いい子ね」
──いい子、ね。
未織の声に、もう逢えない母親の──加奈子の声が重なった。ママが「いい子ね」と言ってくれる時が一番嬉しかった。
──界、いい子ね。
ゲームより勉強を優先させた時。足を怪我した友だちの、ランドセル持ちに立候補したと伝えた時。夫婦喧嘩してるママの味方についた時。ママのビーフシチューは、世界一おいしいと言った時……。どれも「いい子ね」が欲しかったから。ボクを見る誇らしくて嬉しそうな笑顔が欲しかったから。最高バージョンの「いい子ね」は、ハンドクリームをつけた直後の手で撫でてもらった時。一番最後の「いい子ね」は──思い出せない。その時まで記憶を寄せるのが怖い。くそ。母親が鬱陶しいとうなずき合うクラスメートに対し、怒りに近い羨望を隠し続けた思春期……。
「界くん? 聞いてる?」
「──俺は……いい子なんかじゃないです」
未織さんの、微かな吐息が耳をくすぐった。困っているようにも、少し笑ったようにも。
「なんとかするから。ね、なんとかするわ」
あの甘い香りのする手で撫でられたような切なさに、界は声を出さずにうなずいた。
夜の寒さが増したころ、バイトから帰った界の家のドアチャイムが鳴った。
だりあが、半泣きで立っていた。
「界。ごめんね。お父さん、まだだよね? 界が帰って来て、明かりがつくのを待ってたの。すぐにも謝りたくて」
懸命に話す声は震えていて、ごめんなさいごめんなさいと何度も繰り返した。
「匠真さんという人が来たの。知らない人がひとりで訪ねて来たから、びっくりしちゃった。箸箱の話だったんだね。僕のせいです、界くんは何も悪くありませんって頭をさげられた。許してくれる? 未織さんのいとこで鎌倉彫職人なんですってね。鎌倉彫りは彫刻からきたものだし、道具と人間の歴史とか、運慶関連のこととか、これからお話聴ける機会あるかな?」
流れ込んだ冷たい外気が、上がり框をはさんだ界とだりあの間に薄い膜のように広がっていた。
この記事へのコメント
かかわとわ
カラーピーマンさまのコメントが、いつも支えになっています。
だりあには、サヨナラしてもらっては困るので作戦を考えました。四人が複雑に絡んでゆく話になっていく……と思いますので。
界は、マザーコンプレックスからのエディプスコンプレックスですね。
('◇')ゞ
カラーピーマン
第7話 拝読いたしました。
未織さんと界の密会、そういうことだったんですね(;^_^A
だりあは面白いキャラだったので、このままサヨナラじゃなくてよかったです。
それにしても界のお母さんに対する想い出、気持ち、切ないですね。男の子にとって母親は特別な存在なんでしょうね。
これからどんどん運慶の箸箱の秘密に迫ってくるのかと思うと、わくわくします。楽しみにしています。
ありがとうございました。