二年前に開発された生物学的製剤が好調で株価は急上昇し、悠吾の会社は活気づいていた。入社してから9年の間に多くの製薬会社が吸収合併されたが、米国に本社を置くマインドフリーダム東京支社は堅実に業績を伸ばし日本の製薬業界二位の地位を確保した。事故の後、悠吾は大学教員からプロマネとして就職したが、畑違いの職場で実績を作ったのは加奈子の父親の後ろ盾があったからだ。プロマネとはプロジェクトマネージャーの略で、ターゲット領域の市場動向や患者の潜在的ニーズ、他社製品の分析などを行い、MR(医薬情報担当者)と協力し、自社製品に関連する研究を学会などで発表するのが仕事である。悠吾には米国勤務を経て日本支社の管理職になるという道もあったが、界のシングルファザーに徹して出世は諦めていた。
入社して5年目、界が高校に入学した年に支社長は「ワーク・ライフバランスーキャンペーン」に悠吾の私生活を利用した。経済新聞に悠吾のことを売り込み「シングルファザーYの一日」という5回連続のコラムが掲載されたのである。妻亡き後のシングルファザーの生活レポートのような内容だったが、妻や息子への思い、生活の工夫を書いた1000字程度の文章が業界で注目を浴びる。テレビ映りの良い支社長のメディア出現が増え会社イメージが良くなると、新入社員や転職社員の質も向上した。開業医や病院を営業で回るMRの活動にも弾みがついた。
未織と逗子のBarで会った日、未織が勤務する図書館のリメイク講座に、たまたま界が参加していたことを知ると、二人の話しは盛り上がり、自分がシングルファザーであること、未織がシングルファザーに育てられたことなど、互いの人生まで語りあうようになった。二人はメシ友として横浜や銀座で夕食を一緒にしたが、五十代の悠吾には、未織に対して性愛的な感情が湧き上がることはなかった。
「50代、いや60代でも再婚される方はいますよ。息子さんも自立しますから、老後を一緒に過ごす相手が現れるといいのですがね」と田中医師が言っても「いや、自分の心には妻がいます」ときっぱりと否定した。ただ、その言葉が本心から出ているのか「そうあるべきだ」と無理をしているのかは悠吾自身にも定かではない。
11月にMermaidに行った時、マスターが「バブルごっこを12月の第2土曜日の夜にやりますから中の瀬さんも来ませんか、店の暮れの行事です」と誘った。未織は「私も参加します。翌日は仕事いれてませんから、とことん付き合えますよ」と言う。
――未織が自分を誘っている?
警戒感と興味が交錯し「何ですかそれは」と訪ねると「来たらわかります」とマスターは微笑み、「面白いわよ」と未織は悠吾の顔をのぞき込んだ。「じゃあ、僕もホテルとって泊まります、その日は楽しみますよ」と答えると、未織の瞳が一瞬、色を放った気がした。
バブルごっこ前日の金曜日、悠吾は支社長に呼ばれ「4月から部長昇格だ」と告げられた。55歳と定年まで5年しかない悠吾にとっては思いも寄らない話だ。日本人の父とフランス人の母を持つハリウッド俳優に似た支社長は、ウォールストリートジャーナルに掲載されたSingle Father Yの記事を見せ「ダイバーシティ戦略で君を使いたいというわけだ。若い社員や同僚から不満も出るだろうが、本社の意向だからな、本社のホームページにも写真付きで出ているぞ」と言って微笑んだ。会社は悠吾の実績よりも子育てと仕事を両立させている「Single Father Y」の私生活を評価したのだ。
――箸箱の縁の後から運気上昇だ。
バブルごっこの日は北関東には降雪注意報が出ていたが神奈川には冷たい雨が降っていた。午後に北相大学教授を訪ね「学会後援」についての打ち合わせをして、研究室を出た時は午後5時だった。妻の墓参りは明日にすればよいと考えて悠吾は逗子に向かった。逗子駅を降りて徒歩10分の海沿いのホテルまで歩いていると襟元に湿った冷気が入ってきた。トレンチコートの襟を立てる。ホテルの部屋は5階で窓からは夕闇が迫った雨の相模湾が見えていた。部屋で打ち合わせ書類を整理しノートパソコンで報告書をまとめて腕時計を見るとまだ7時半である。悠吾は支社長の言葉を思い出し、マインドフリーダム社本社サイトをチェックしてみる。「Respect for diversity」というページには、悠吾の写真と記事が大きく出ており、その下は支社長の写真とインタビューが掲載されていた。
――何が評価されるかわからないもんだな、さてと行きますか。
Mermaidのドアには『都合により本日9時で閉店します』と張り紙がしてあった。ドアを開けるとフロアにあるテーブルは片付けられていて、ソファだけが二つ壁際に置かれ、カウンターとソファの間には大きな空間が出来ている。悠吾は店の片隅にあるコートハンガーにトレンチコートを掛けた。未織のものと思われる赤いコートがすでに掛けられている。「来ちゃいました」と言ってカウンターにいる未織の横に座った。未織の容姿は以前とは違っている。アズディアンアライアのブルーのボディコンスーツは加奈子がお気に入りだったバブル時代のモノだ。髪の毛は前髪ウェーブで、唇は以前より濃いピンクのルージュである。
「中ノ瀨さんいらっしゃい。今日は3000円飲み放題のセルフサービスです。聞きたい曲あれば何でも聞かせますよ」と、マスターは嬉しそうな顔で言った。
「恐いもの見たさで、やってきましたよ」
未織が悠吾を見て微笑む。以前と違って瞳がキラキラしている。
「今から家内を呼びますね」とマスターはスマホを手にした。
10分後に黒いウールコートを着た50代の女性がやってきた。髪はワンレングスで、大きな銀色のイアリングが光っている。コートを脱ぐと肩パットの入った赤いワンピースと黒いストッキングが現れた。
「みおちゃーん~」
「超バブってるじゃん。こちら、なかのせさん」
「こんばんは!ジェントルマン!」と、バブルな言葉を悠吾に投げかける。
「みおちゃんミホリンみたいじゃん!彼氏のためね~」
「何、適当なこと言ってんのよ!」
「家内の真美です」とマスターは氷の入ったグラスをカウンターに置きながら言った。
二人がバブル時代の服を着こなせているのは若い体型を維持しているからだ。
「夫に付き合わせてすみません。この人バブルで頭が止まってるんです。ここだって父親の土地に立てた賃貸マンション、本当に、どら息子一直線。最近はオンラインワークが増えて、このあたりに部屋を借りる人が急増してねえ。家賃を上げても入ってくれるんでプチバブルがやってきたって調子が上がってるのよ」
「逗子は在宅ワーク社員にとって人気ナンバーワンですからね。男性が多いので店の客も増えてます。今日の曲はこれで行きますよ」
マスターは自分で焼いたと思われるCDを目の前に差し出した。ジャケットには80年代を飾ったミュージシャンの姿が並んでいる。
「開店中はジャズしか流さないんですが、自分、こっちの方が好きなんですよ」とマスターは言ってCDをセットすると、ホイットニー・ヒューストンの“I Wanna Dance with Somebody”の軽快なイントロが大音量で流れ始めた。
https://www.youtube.com/watch?v=eH3giaIzONA&list=RD3JWTaaS7LdU&index=21
(注・音が出ます)
「CDにはバブル時代の洋楽50曲を焼いてます」と大きな声でマスターは言った。
「ワイルドターキー、メーカーズ・マークス、スコッチはマッカラン、3ボトルもあればいいでしょう。ソーダは10本くらいですね。今回の氷は製氷機から取って下さい」と言った。
未織は大きめのグラスを持ち製氷機に行って、氷をいれてカウンター席に戻ってきて、自分でマッカランのソーダ割を作り始めた。悠吾はワイルドターキーをロックで飲むことにした。カウンターに入った奥さんは、冷凍ピザをレンジに入れ、持ってきた野菜でサラダの盛り付けを始めている。マスターは冷蔵庫からローストビーフを取り出し、薄く10枚くらい切って皿の上においた。酒瓶、ソーダ水、料理がカウンターに並べられた。マスターと奥さんはメーカーズ・マークスをグラスに注いでいる。カウンター席に座っている未織と悠吾の前に、マスター夫婦がやってきてカウンターの向こう側からグラスを差し出し「乾杯」と言った。
「男の服装は当時と替わらないけれど、私達は変わったよねえ」
「私は職場が図書館だから仕事に行くときは地味だけど、真美はOLだったからねえ。あの頃のOLは赤と青とか原色、そしてブランド。これなんか今は絶対に着ていけない。頭おかしいと思われちゃう。ここまで来るのだってヒヤヒヤよ」
その後は、それぞれウィスキーを飲みながら『私をスキーに連れてって』に影響をうけて週末はスキーバスで長野に行ったとか、ティラミスが出たのは、あの頃だったとか、男はシーマに乗りたくてしかたなかたったとか、懐かしい話題が出る度に4人の酒量は増えていった。
未織がソーダ割りで飲んだのは一杯目だけで、その後はマッカランをロックで飲んでいる。30分で2杯くらいのハイペースで4人は飲んでいた。バブル世代の女性が良く飲むのは知っていたが、こんなに飲む女性は始めてだ。
酔った真美はマスターのハゲ上がった頭に手をあて「昔はここに沢山あったのにねー、ロン毛、じゃなくて長髪もできないねえ、ははは」と笑っている。「お前こそタレパイだろうが」とマスターは奥さんの胸を掴む。
「あはは、バーカ」
マドンナの“Papa Don’t Preach”が流れてききた。マスターがカウンターから出てきて社交ダンスなのかディスコダンスなのか解らないステップで踊り始めると、真美はマスターの前で両腕を交互に前後して腰を前後に振っている。未織は手で膝を叩いてリズムをとって笑っている。悠吾の目に、すらりと伸びた未織の足が入ってきた。流れてくる80年代の曲を聴いていると懐かしい頃が蘇ってくる。
ーーあの時代は、なにもかもがバブル。経済も、音楽も、人生も、男と女も。
「みおちゃん、お立ち台いこう!」と真美が声をかける
フラフラした足でマスターは店の裏に入っていった。すぐに空になったビールケースを右手と左手にぶら下げて戻ってきて床に並べて置いた。
「それでは、みおりさん、お願いしま~す」
「踊りまあーす!!」
未織はかなり酔っていて、ハイヒールを脱いで、ビールケースお立ち台にのり、両手を交互に上下に動かしてリズムを取り始める。ハイテンポのユーロビートに曲が変わると未織の身体の動きが激しくなる。未織の豊満な胸が上限に揺れる。
「ほら、扇子」
未織がお立ち台で右手に扇子を持ち左手を前に出し、頭を後ろに傾けると身体が落ちそうになり、危ない!と悠吾は思ったが、未織はフィギアスケーターのように反り返った身体を持ち直した。反り返った時の未織のウェストから胸への曲線が情動を動かす。
ーーこの世界に参加しなきゃ。
悠吾はウィスキーを一気に飲む。酔いがまわっている悠吾のところにお立ち台から降りた未織がやってきて「悠吾さん、一緒に踊ろう」と手首を握った。
マスター夫妻が向き合い、腕を上下に動かして踊りはじめた。目の前では、うつろな眼差しの未織が激しく踊っている。しかし悠吾には55歳の会社社員の自分がいて、バブルごっこに乗り切れない。
ーー退行だ。
「心の子ども還りを退行と言います。若い時代に戻って楽しむことは健康な退行で、疲れた心を取り戻すのです。中ノ瀨さんは。父親と社員という役割だけで生活していますから意識的に退行の場所を探せると良いんです」という田中医師の言葉が頭に浮かぶ。
ーー退行、退行!
悠吾は、社員であることも父親であることも忘れてリズムに自分を乗せる。腕と頭を振ると酔いが回り、クラクラした頭の中で大学生に戻っていた。
五十代男女の狂乱状態は午前2時まで続いた。バブル時代のディスコへと化した店のカウンターには3本の空になったウィスキーボトルが転がり。床には、落ちたグラスが割れている。気がつくとマスターと奥さんが抱き合って唇を吸い合っている。うとうと悠吾がソファにもたれていると、さっきまでカウンターに突っ伏していた未織が「ゆうごちゃーん」と甘えた声を出して横に座り豊満な胸を押しつけてくる……。未織の唇を吸うと、激しい情動が悠吾の身体に突きあがってきた。
日曜日の午後に二日酔い状態で家に戻ると界がソファで村上春樹を読んでいたが、父親を見ると本をローテーブルに置いて、睨むような顔で強い口調で言った。
「夕べはどこに行ってたんだよ。金曜日、だりあと図書館行ったら、未織さんから、界君って言われた。もしかして、オレを出汁にして二人で話してるんじゃないの。まさか二人は付き合ってないよね。この先、再婚なんかしたら、ママが絶対に許さないよ!!」
再婚という思いもよらぬ言葉に対して、悠吾には戸惑いと憤りが生じた。
「結婚とか、そういうのではない大人の付き合いがあるんだ。お前な、だりあちゃんを彼女にするんだったら、きちんとしろよな。ママが亡くなった後、だりあちゃんの両親には、ずいぶんと世話になったんだからな」
「なんだよ、それ!」
「とにかく未織さんとの再婚は絶対に嫌だからね!」
リビングのドアをバタンと閉めて界は出ていった。
この記事へのコメント
カラーピーマン
コロナのさなかに@@書いたのですね。 二度びっくりしました!!
異次元の世界に迷い込んだのかもしれませんね。
大変な時にありがとうございました。
藤村 邦
かがわとわ
感想、いつも楽しみです。ありがとうごさいます。
未織という女が、ますますわからなくなってきましたね。
(^▽^) どうなるのでしょう? ふふふ。
この先は、誰にもわからない……ふふふふ。
カラーピーマン
未織さんに~、バブルで弾けてた時代があったなんて@@びっくりしました。バブルごっこのアイディアにも驚きです。どうしてこのような面白いストーリーを思いつけるのでしょうか?
ホイットニー・ヒューストン、映画『ボディーガード』を思い出します。
楽しませてもらいました\(^o^)/ありがとうございます。次回も楽しみにしています。