第4話 下の名前 かがわとわ  (絵・芦野信司)

箸箱扉B.jpg
タイトルなし.jpg 4話登場人物.jpg

「期末テスト、終わったぁぁぁ♪」
 昼を少し回った時、だりあからLINEが着信した。スタンプ動画が躍りまくっている。界は笑みながら素早くレスする。
「十日までって言ってたもんな。俺もあとでLINEしようと思ってたとこ。どうだった?」
「わ。覚えててくれたんだ」
「もちろんでございます。だりあ様のテスト期間中、邪魔せぬようにこの四日間はじっと耐えておりました。っていうか、そっちが七日から十日までは勝負モードだからって鼻を膨らませて言ったんだろ」
「やだぁ~。膨らんでた? テストはね、まあまあ出来たと思う」
「よし。やったじゃん! 今日はもう帰ってんの?」
「うん。テスト期間は午前中で終わりだもん」
「俺も今日は二限目までだったから家にいる。あとで会っちゃう?」
「今、界の家の前にいる」
 界が二階の自室の窓を開けると、だりあが道から見上げて手を振っていた。階段を駆け下り、ドアを開けて外に出たとたん、
「界!!」
 抱き着いて来た。だりあを包むコートも顎先に触れる髪も冷たい。濃紺ハーフコートの下からのぞく制服のスカートと、生足にハイソックス。
「え? まだ家に入る前?」
「電車に乗ってる間も、駅から歩いて来る間も、ずっと考えてた。テストの時は考えないようにしていたこと──。私、界に訊きたいことが」
 体をつけたまま仰向いて、笑い損ねたように唇を歪めた。
「ちょっと待った。ちゃんと聴くから、まず家に帰って着替えて昼めし食って来い」
「界は?」
「もう食べた。でも部屋着のまま出て来ちゃったから」
 界は、ぶるりと首をすくめた。
「寒っ。一旦解散しよう。食ったら、うちに来いよ。とりあえず俺がいたから安心したろ」
 やべえやべえ。あのまま路上キスするところだった。近所の誰かに目撃されたら大変だ。界はリビングに下り、紅茶を淹れる準備をした。だりあはコーヒー党と紅茶党の周期が、ほぼ一年単位で入れ替わる。今は紅茶党なのだ。界はどちらかと言うとコーヒー党だが、家に呼ぶ時はだりあの周期に合わせて同じものを飲むようにしている。単純に用意が楽だからだが、だりあは界の愛情の現われと思っているので否定しないでいる。父親が知り合いからもらった「マリアージュフレール」のシックな黒缶を手に取る。ファミレスのまずい紅茶より、だりあの気分は上がるだろう。欲しいものとやりたい事への情熱が突き抜けて激しい彼女ゆえ、しっかり者と不安定さが同居する。そこが界にとって魅力でもあり、脅威でもある。訊きたいことって、何だろうか。
 ドアチャイムが鳴った。
「早えな」
「お母さんのチャーハン、かっこんで来た」
 話しながらスリッパ立てからスリッパを抜いて履き、勝手知ったる中ノ瀬家に入って来る。リビンクテーブルの横で、キス。確かにだりあの唇は油っこくてニンニク臭かった。キスすることはわかってるのに、歯磨きもせずに飛んできたのかよ。それでも界がティーポットとカップの湯通しを始めるや、「私のほうが、淹れかた極めてるから」と甲斐甲斐しくあとを引き取った。
 ちょっと甘酸っぱい香りの紅茶の香りをはさんで、向き合って座る。だりあは「まずはひとくち」と、ふうふうして口に含み「おっいし~い」と微笑んで見せ、間を置かずにくるりと真顔になった。
「でね、私が訊きたい事というのは」
 スイッチの切り替えが早すぎて怖い。
「界はなぜミオリさんを、名字じゃなくて名前で言うの」
 カップを脇によけて、ぐいと上半身を乗り出した。
「は? なんだよいきなり。ああ、テストが終わったら一緒に彼女に会いに行こうってのを断ったこと?」
「質問にちゃんと答えて。話の軸をぶらさないで。なぜ、名前なの? ファミレスで聞いた時から、なんかもやもやしていたんだけど、界はミオリさんとは本のリメイク講座で初対面なわけだよね。一日の内の数時間だよね。ただの講師と受講生のひとりだったわけだよね」
「そう言ったろ」
「そういう人を下の名前で呼ぶ? なんか変じゃない? じゃ、彼女の名字は何て言うの」
「高富。高富未織」
「ほらっ! おかしい。それだけの講師をフルネームで即答。普通、名前なんて覚えない。ほんとは以前から──」
 界は、やれやれと小さく笑った。
「あのな。同じテーブルで受講していたおじさんが、先生のお名前はなんと読むのでしょうかって訊いたんだよ」
 スマホを引き寄せるとメモ帳アプリを開いて「未織」と手書き入力してみせた。
「俺も何て読むのかなと思ってたから。他の読み方も出来るだろ。名字もなんか豪華な感じだったから覚えちゃっただけだよ」
 だりあは、まだ納得できないと言うふうに眉をしかめた。
「じゃあ、運慶の箸箱だの末裔だのの話は? そんなことまで講義中に教えてくれるわけ? 界はお父さんと未織さんのことを運慶つながりで浄楽寺で会ったのかもとかいろいろ言ってたけど、どうしてそこまで詳しく推測できるほど未織さんのことを──。ねぇ、ほんとは知っている仲だったんでしょ」
「いい加減にしろよ。いいか、俺は『夢十夜』の文庫本をリメイクしていて、そこから運慶が出てくる第六夜で未織さんと話が盛り上がっただけだ。どうしたんだよ、いったい。ファミレスでは、わかった風な態度で親父と未織さんの再婚を奨励してたくせに」
 短い間だりあは黙り、肩で大きく息をついて目を潤ませた。
「だって──ほんとはいろいろ引っかかっていたけれど、その場で訊きだしてテスト前にもやもやしたくないし。テスト終わったら、界と一緒に会いに行こうって誘ったのに、速攻で断るから余計に気になって」
「あのな、もしも俺が未織さんと前から知り合いだとして、それをだりあに黙っている必要ってある? 意味わかんねえ」
「だって」
 今日は、「だって」ばかりのだりあが、薬指で目じりを拭いた。
「未織さんは、将来私のお義母さんになるかも知れないわけだから。そういう人がいたなら、何で界は隠していたのかなって……」
「え」
 呆気にとられた界は、返す言葉を見失い「え」の口の形のまま、固まった。
「お父さんの再婚とか、もっと先のこととか、将来の嫁としてつい気にかけちゃう」
 だりあは、残りの紅茶に口をつけた。
「冷めちゃったね。ねえ、新しく淹れなおしていい?」

 だりあに押し切られて、未織さんが勤める図書館へふたりで向かった。だりあは界が嘘をついていないと信じてくれたようだが、それはそれとして、未織さんを見てみたいと言う。同行をあまり頑なに拒否すると、せっかくだりあが落ち着いたのにまた妙な空気が流れそうで面倒になったから──と言うより、ぶっちゃけ未織さんに会えるのなら、やはり会いたい。あのハンドクリームの香りは、近づかないと嗅げないのだ。かなり近づかないとあの香りは……。今日は金曜日で、七時まで開館しているから余裕はある。明日、明後日だと五時で閉館してしまうし、父親にばったり会う確率が大きい。続く月曜は休館──となると、行くなら今日だ。あえて明日にでも行って、父親と館内で鉢合わせしてやることも出来るが、そんなことはしたくない。父親と未織さんが書架の影で囁き交わす姿を想見し、界は顔を顰めた。あの時──未織さんと一緒にいた父親の顔は、見たことのない緩みかたをしていた。自分では気づいてないのだろう。あんな顔をして。それが界を酷く不愉快にさせた。
「だりあ案の、地下一階の飲食コーナーで待ち構える方法は日数がかかる。カウンター内や、書架の近くで作業していないかフロアごとにチェックしながら探して行こう」
「未織さんを発見したら、私が資料の質問を装って話しかける」
「で、一緒にいる俺が『あっ、あの時はどうも』と、驚いてみせる」
 白い息を吐きながら、図書館に続く坂道を登って打合せする。界は、未織さんとの再会に、爽やかな笑顔を向ける自分を脳内で何度か練習した。でも職員は大勢いるのだ。あの図書館はなんてったって広い。そんな都合よい展開には……とにかく、館内を巡って探そう。いるかな。いてくれ。会えるかな。書庫や装備室にいたら会えない。あの人って偉いのかな。講師をするくらいだし、年齢も……。どのくらいの立場なんだろう。
 ──未織さんは、一階のヘルプデスクにいた。あっけなく発見できて、かえって慌てた。
「うわ。いた」
界が立ち止まって呟くと、だりあは浮きたった小声をあげた。
「どっち?」
 少し離れてもうひとりの女性司書が立っているのを、界はその時に気づいた。未織さんしか、目に入っていなかった。綺麗な方、と言いかけて慌てて「髪が長い方」と答えた。もうひとりはショートカットだ。レファレンス中の未織さんは、カウンターを挟んだ来館者に頷きながら、パソコンを見つめては何か言葉を交わしている。未織さんのレファレンスが終わるのを見計らって「行くわよ」と前に出るだりあに、界も自然を装ってついていく。こ、心の準備が。うまく爽やかに微笑めるだろうか。
「すみません。人間と道具についての本を探しているのですが、どの辺にありますか」
 だりあが、淀みなく未織さんに声をかける。
「はい。どのような道具でしょうか。たとえば──あら」
 未織さんは、界に気づいて花が開くように笑んだ。
「あ、ああ。偶然ですね。あの時はどうも」
 界が笑顔をつくると、
「偶然って……。私、ここの司書だから」
 おかしそうに目を細めた。
「そりゃそうですね。はは。だりあ、この方は、先日リメイク講座でお世話になった講師さんなんだ」
「わぁ、そうなんですね! 私も来たかったけど、用事があって来られなかったんですぅ」
 ──だりあのほうが、演技が上手い。
 未織さんは、だりあとやりとりを始めた。
「3類の社会科学か、5類の技術・工学の棚になります。具体的に、どういう道具ですか」
「はい。今日調べたいのは、箸箱についてのあれこれです」
 未織さんは界をちらりと見て、だりあに視線を戻し、
「それでしたら、5類のコーナーですね。ご案内します」
「棚まで案内してくれるんですか」
 嬉しそうなだりあに、
「このフロアだから、いいのよ」
 先を歩きながらちょっと振り返って、
「妹さん?」
 と微笑んだ。
「彼女です」
 だりあがすかさず答える。
 未織さんは、調度品の棚から箸箱が載っている本を何冊か抜き出してくれた。
「こういうのじゃなくて、え~と、箸箱の歴史についてとか、昔の仏師は箸箱もつくったのか、とか」
 未織さんの本を抜き出す手が止まった。軽く息をつくと、
「箸の文化史的な本になりますと、四階の社会科学3類の棚になります。フロア図でご説明しますので、カウンターに戻りましょう」
 未織さんを先頭に戻ろうとした時、だりあが界の肘をつんつんした。スマホに入力したメモをそっと見せる。《 ちょっと離れるから、いろいろ聞いといて 》
 界が意味を測りかねていると、だりあが、
「私、もう少しだけこの棚を見たい。ほら、この本とか面白そう。界、場所を訊いておいて。あとから行くね」
 明るく告げ、未織さんに向けてもにこっとした。
 だりあを残してカウンターに戻る途中で、今度は未織さんが界の腕を軽くとって、書架と書架の間に誘導した。
「あ、あの」
「界くんは、何でも彼女に話しちゃうのね」
 界くん? え? 今、界くんと言った? 触れられたばかりの右腕が痺れ、耳の後ろがカッと火照った。小声の早口で未織さんは言葉を続ける。
「私が運慶の箸箱を持っていることは、悠吾さんにも教えていないのに」
 今度は父親の名前を口にした。混乱のあまり界の頭は氾濫濁流状態となり、絶句した。
「悠吾さんには、私も天然木の名前入りの箸箱を使っていたと話したけれど、それはあれとは別物。子孫だって、まさか運慶の箸箱を日常使い出来ないわよ。大切にしまってあるわ。界くんだけに教えたのに。いい? あまりぺらぺら喋ることじゃないのよ」
 ちょっと睨んでみせると唐突に手を伸ばし、界の唇を軽く塞いだ。あの甘い香りが責めるように鼻に押し寄せ、ここで子どものように泣いてしまいたくなった。頭のブレーカーが落ちそうなのを必死で抑えると、
「未織さんは、父とどういう関係なのでしょうか。いつからの──」
 それには答えず、未織さんは踵を返してカウンターに向かった。
 界が四階フロアの説明を受けていると、だりあが来た。
「資料の場所は彼に説明しておきました。四階にも担当者がおりますので、わからないことがあったら、どんどん質問してくださいね」
 未織さんが、優しさがこぼれるような口調でゆっくりと言った。
 移動しながら、だりあは界の横にまわり、
「どう? なんか訊き出せた?」
 期待で瞳が光っている。
「何で急に離れるんだよ」
「未織さん、仏師と箸箱のことを口にしたら、ちょっと嫌な顔をしたから」
「──そ、そうかな。気のせいじゃないの」
「質問を間違えたかなと思って。界とふたりにしたほうが、お父さんとの事を界から訊くチャンスあるかもって。で、何か情報をゲットできた?」
「──何も。カウンターに戻って、フロア地図で場所を教えてもらっただけ。親父との関係なんて、いきなり訊けるわけないって言っただろ。何度言ったらわかるんだよ」
 界の語気は、つい荒くなった。だりあがうつむく。
「私、最初は未織さんに会いたかっただけなのに……。あの人、なんていうか……気になるんだもん……うまく言えない……ごめんなさい」
 無口になったふたりは、教えてもらったフロアに行かずに図書館をあとにした。

 冬の日暮れは早い。帰宅した時に外は暗くなっていたが、夕食の支度をするまでにまだ時間はある。今夜は界の当番だ。帰り道にスーパーへ寄ろうと思っていたが、まっすぐ帰って来た。ふたりで縦に並んで歩いて来て、家の前で別れた。カレーが食べたいが、人参の買い置きが足りない。たまねぎと薄切り牛肉があるから、ハヤシライスができる。あとは、マッシュルームの水煮缶とトマトケチャップとウスターソース、固形スープの素、小麦粉にバターに塩、胡椒……。冷蔵庫とパントリーを確認して献立が決まると、自分の部屋へ上がった。
 ローソファーに腰を落とすと、界は大きくため息をついた。──界くんだけに教えたのに──未織さんの言葉が蘇る。あれは、どういうことなのか。運慶の箸箱はあまり人に知られてはならないのか。運慶の話で通じ合ったからって、初対面の俺になぜ? 親父には運慶の箸箱の存在を知らせていないというのは本当だろうか。親父に教えた箸箱は名入りのものだと言っていた。俺が未織さんから見せてもらった箸箱には、名前は入っていない。表面、裏面、側面までいろいろな角度から撮影したものを見せてくれた。細かい浮彫が施され、飴色になった箸箱に「運慶」の名前は無かった。もちろん「未織」とも。運慶が遥か先の子孫の名前を彫り込めるはずがない。親父に言った箸箱は実在するのだろうか。名入りの天然木なんて、まるで俺が東北のおばあちゃんからもらった箸箱みたいじゃないか。未織さんは、親父を悠吾さんと下の名前で呼んだ。そんな仲なのか。なんかむかつく。あ、これじゃだりあと同じじゃないか。俺だって今日未織さんから、界くんって──。それは親父がいてこその「界くん」なのか。あの人、一体、何者なんだよ。 
「ああっ、ぜんっぜんわかんね~」
 界は、頭を抱えた。──だりあのやつ。マジで結婚一直線しか考えてないし。別にだりあでいいんだけど、そうすると俺のこれからの人生はだりあとだけなのか。そんなのって、どうなんだよ。それは、空しすぎる。あ~。期末テストが終わるまで我慢してたんだぜ。今日はさあ、図書館なんて行かずにやれると思ってたのに。ちぇっ。やりそこねた。界はだりあのツンと立った時の薄ピンクの乳首を思い出した。洗面所の陶器の石鹸置きとほぼ同じ色。あの石鹸置きを昔親父が買って来た時、なんでピンクなんだよぉと言った界だが、だりあのと同じとなった今では悪くない感じだ。今日ってなんだったんだろう。最悪だ。最悪か? でも、未織さんに会えたから……会えたから……未織さんて、どんなおっぱいしてるのかな。あの手みたいに柔らかくて……やっぱ大人の女のおっぱいってだりあの感じとちがうんだろうな。未織さん……。
 思案に暮れていたはずが、妄想に変わり、界は下腹部に手を伸ばした。


この記事へのコメント

  • かがわとわ

    カラーピーマンさま
    いつもありがとうございます。
    笑ってくださって嬉しいです。
    未織っていったい何者なのか、書いている私たちにもわかりません。
    バトンを繋げていくうちに、彼女や運慶の箸箱の謎が解明されていくのでしょう。どのへんで焦点を結ぶのかな……。
    共同執筆の楽しみのひとつは、先がまったくわからないまま繋げていくのに、なんとなく纏まってくる不思議感です。
    ('◇')ゞ
    2022年02月12日 23:22
  • カラーピーマン

    かがわ様、第4話拝読しました。

    笑っちゃいました。特に、
    >「あ、ああ。偶然ですね。あの時はどうも」
    >界が笑顔をつくると、
    >「偶然って……。私、ここの司書だから」
    >おかしそうに目を細めた。
    ここの所声を出して笑ってしまいました。

    それにしても未織さんはミステリアスな人ですね。
    清楚なんだけど男を虜にする魅力的な女性のように感じました。
    だりあがやきもきする気持ちがわかります。
    運慶の箸箱も、これからどのように絡んでくるのかワクワクしています。
    ありがとうございました。
    次回作も楽しみにしています。
    2022年02月12日 22:54