第3話  ファミレスの二人  芦野信司(絵も)

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 界とだりあの家からさほど遠くない街道に面したファミリーレストランは、ハローウィンの飾り付けが取り払われて今はクリスマスツリーが入り口のドア付近に飾られている。そして店内の天井にはサンタクロースとそりのデコレーションが下がっていた。時刻は6時。大きな窓ガラスは夜の色となり、舗道を行き来するコート姿の人たちとヘッドライト・テールライトの流れを映し出していた。天気は雨の予報だったが、まだ傘を開いている人はいなかった。広い店内には多くの客がいたが、それでも席の半分は空いて、黒のシャツに身を包んだ店員がフロアー内を静かに配膳していた。
 だりあと界は、窓際の端の四人掛けのテーブルに向かい合わせで座っていた。界はグレーのチェスターコートを隣の席の背もたれにかけ、長傘の取っ手もひっかけていた。ハンバーグ定食をつまらなそうに食べている界の目の前で、だりあは藍色のだぶだぶのニットの袖を少しだけまくって物理の参考書をにらんでいる。そして時々ノートにペンシルを走らせている。ケーキは半分ほど食べかけで、紅茶カップは空になっている。
 界はナイフとホークを両手に握ったまま、だりあに声をかけた。
「そんなに勉強ばかりするんだったら、家にこもってやっていた方が効率的じゃないか」
 だりあは、ノートを取っていた手を休めて上目遣いに界を見た。
「そんなことしていたら界に会えないじゃない。2学期の期末試験なんだからしょうがないでしょ。お母さんには、界から勉強を教えてもらっているからと言い訳しているの。お母さんなんかは、それならいっそ界に家庭教師になってもらって家で勉強しなさいと言っているくらいよ。夕食も一緒にしましょって。そんなの嫌でしょ」
 皿の上のハンバーグをフォークに突き刺しながら界が言った。
「うーん、嫌だね。だりあの頭の悪さが俺の責任になるからね」
「こらあ」と、だりあはもう一度上目遣いに界を睨みつけた。
「冗談。だりあは賢いから俺が教えられるようなことは何もないさ」
 界はそっけなくそう言った。
「また、そんなことを言ってからかうんだから」
 だりあは、もう一度ノートに目を落とし、さっき界に話しかけられて中断したところから、勉強を再開した。5分ほど黙ったまま集中していた。そしてノートを閉じて界と向き合った。
「お待ちどおさま」
 界は、フォークとナイフを皿に置いたまま水を飲んでいる。皿にはハンバーグが一口分ほど残っていた。
「待ってねーし」
「食欲ないの?残っているわよ」
「あのなー、そっちだってケーキ残しているよね」
「まずいもの。それに家に帰ったら夕食が待ってるし」
「俺だって、ここのハンバーグは食い飽きているからね」
 だりあはテーブルに両肘をついた。そして両の掌で挟むように可愛らしい置物のような顔を載せた。笑っている。次いで、心配げな表情になった。
「ちゃんと食べてるの?うちのお母さんがね、心配しているの。近頃顔色が悪いって」
「えっ、だりあのお母さんとあったかなあ。全然記憶にないんだけど」
「女の人はね、目が鋭いんだから。特にうちのお母さんは、駅の雑踏でも界のことを見分けられたそうだから」
「怖いな」
「怖いわよ。食べてないでしょ」
「食べているさ。中学以来ずっと何かしら料理していたんだから、だりあよりは料理ができるぞ。でも……」
 界は少し考える風に右肘をテーブルに載せ、頬杖をついた。自然にダリアとの距離が近づいたので、だりあは少しだけ近視の目を大きく見開いた。
 界は小声で言った。
「ここ最近、オヤジの様子が変なんだ。食事当番をすっぽかしたり、急に残業だと言って遅くなったっり」
 だりあは、界の目をのぞき込んだ。
「そんなこと当たり前でしょ。うちのお父さんなんか10時に帰ってきたら早いほうよ。界のお父さんは偉いよ。男手一つで界を育ててきたんだから」
「それだけじゃない。土日になるとよく図書館に行くんだ。これまで図書館なんて縁のなかった人がだよ。おかしいと思わないか?」
「なぜおかしいのかな? 誰だって急に本が読みたくなることあるでしょう。それより、それっていいことなんじゃないの。界だって本が好きで文学部を選んだんでしょ」
「でも、オヤジの場合は違うような気がする。だりあのお母さんじゃないけれど、1週間前に夕方の駅でオヤジを見かけたんだ。女の人と一緒だった。俺が直ぐ柱の陰に隠れたのでふたりとも俺に気づかなかったが、その日オヤジから残業だから夕食は外でするとラインが入っていたんだ。そしてオヤジと一緒だった相手というのが、ほら、1か月前に本のリメイク講座が図書館であっただろう、あの時の講師の人なんだ。オヤジと同じぐらいの歳だと思うけど、なんだか艶っぽい人で、図書館の司書をやっている。どう、変だと思わないか」
「変かどうかは分からない。でも、そう言うこともあるんじゃないかと思うけど」
「そういうことって?」
「恋愛とか再婚とか」
「再婚? まさか」
 界は椅子の背にのけぞるように身を引いた。
「嘘だろう。まさかね。でも可能性としてはあるのか。……そんなことになったら、俺一緒に住めないな」
 だりあは界を睨んだ。
「どうして」
「いやだからさ」
「それじゃお父さんがかわいそうよ。界が一緒に住まないなんて言ったら、お父さん、決して再婚できないでしょ」
「えー、俺はどうでもいいんじゃないの。二人で勝手にすればいいじゃない。俺はもう子供じゃないんだし」
「じゃあ、もし界がまだ子供だったらどうなの」
「どうだろ。やっぱり嫌だな」
「ほら、基本的に変わらない。再婚に反対なんでしょ」
「俺の気持ちなんてどうでもよくはないか?」
「そんなことはない。一番気にするのが界のことよ。あったり前じゃない」
「じゃ、反対だ」
「それは界の身勝手なんじゃないの」
 界は狼狽するように顔を左右に振ってから、だりあを脅かすように顔を近づけ低くうなった。
「勝手なことを言うな。俺は出る」
 界は、レシートを取って席を立とうとした。
 しかし、だりあの手が界の手を止めた。
「界、逃げないで。お願い。もう一度席に座って」
 だりあの声で店の他の客が何事かというように二人の方を向いた。界は、半分浮かせた腰をもう一度下ろした。
 だりあは身を小さくして小声で言った。
「ごめんなさい。つい大声になって」
「カッコ悪いよな。俺、まるで変な奴みたいに見られたよ」
 界も同じように小声で答えた。
「界を責めている訳じゃない。ただ普通に考えてみてよ。奥さんを事故で亡くして9年間も一人で子供を育ててきた男の人が、子供が成長して親の責任から解放され、それで恋をしたなんていうことがそんなに変なこととは思えないんだけど。むしろ素敵なことじゃないの。界がもしそう思えないのなら、界がお母さんの死からまだ抜け出せないでいるのかな」
 界は厳しい目でだりあを見ていたが、次第にその視線をテーブルの上に漂わせて、最後には目を閉じた。
「俺、抜け出せるのかな。一生抜け出せない気がする。俺、あの時オヤジの携帯に電話したんだ。帰ると言っていた時間に遅れていたので。電話が通じた途端に悲鳴がして電話が切れた。あの悲鳴が今でも胸の中にぶら下がっている。俺が電話したから事故が起きた訳じゃないけど、俺が電話しなかったら事故は起きなかったんではなかったかという気がどうしてもしてしまう。それを振り払うことが長い間できなかった。運転していたオヤジに対しても、どこかで、おまえのせいだという意識がずっと続いていた。今ではそうは思わないけど、なにか嫌なものがくすぶっている。オヤジ自身がその思いをずっと克服できないでいることは知っているけどね。今日も母の月命日のお参りに行ってるし」
 界はそこまで言うと、眉根を寄せて少し考える様子をした。
「そうか。浄楽寺だよ。運慶だよ。分かった。彼女、名前は未織さんと言うんだけれど、もしかしたらオヤジとは浄楽寺で会ったのかもしれないな」
「どういうこと?」
「うちの母方の菩提寺が横須賀の浄楽寺にあるんだ。それで、母の墓もそこにあるんだけれど、浄楽寺には運慶の彫った仏像がある。それで、未織さんは運慶の末裔だって言っていた。運慶つながりで何かある。リメイク講座の時も、何だか妙な気がしたのはそのせいかな。中ノ瀬なんて珍しい名前だから、俺のことを知っていたのかもしれない。代々伝わる運慶の箸箱という画像をスマホで見せてくれたよ」
「箸箱? 鎌倉時代に箸箱があったのかなあ。興味あるなあその箸箱。私、見たい」
「えー、そんなものどうでもいいよ。オヤジ、墓参りだなんて言って、本当はデートしてんじゃないのかな」
「界は変だよ。デートしてたっていいじゃない。きっと亡くなったお母さまが引き合わせてくれたんだよ。そう言う風にロマンチックに考えられないのかなあ」
「考えられない。俺は嫌だね」
「界に新しいお母さんができて、ちゃんと界やお父さんを見てくれる人がいたらいいと思うんだけどなあ。私だって安心だし」
「だりあがなぜ安心なんだ?」
 界があんまり単純にそう聞くもので、だりあの顔にぱっと血の色に染まった。
「だって、界のお父さんのことを心配しなくていいじゃない」
「ん? なんで?」
 界は鈍感なのか、意地が悪いのかどっちなのだろうとだりあは思った。そして界の頬のあたりに隠していた笑いの影が兆すのを見逃さなかった。
「ばか」
「だりあは、オヤジの老後のことまで心配してたんだ」
「嘘でした。私は何も心配していませんよ」
 だりあはふくれっ面をしてみせた。
「ああそうだ。急に思い出した。箸箱だよ」界ははしゃいで、だりあのニットの腕を取った。「オヤジ、墓参りに俺の小学校の時の箸箱をこっそり持って行っていた。母さんが弁当を作ってくれていた思い出の品だよ。やっぱり何かある。運慶だけじゃない。箸箱でもつながっていたな」
「ほら、そうでしょ。お母様のお引き合わせよ」
 界はふざけて目を大きく見開いた。
「他の女の子がそう言うんだったら分からないこともないけど、バリバリ理系のだりあが言うと嘘っぽい。信じてないでしょ」
「ええ、と。分からない。信じてないかな。でも、そういうことよく言うじゃない」
「説得力ねー」界はけらけらと笑った。
「私、未織さんに会ってみたい。ねえ、紹介してよ。箸箱について聞いてみたいの」
「まったく、だりあって変わっているよな」
「そうかなあ。箸は道具として昔から完成していたでしょ。細い木の棒がふたつあるだけで機能的に改良の余地がないものね。でも、箸箱となると単なる箸の入れ物というよりもっと情緒的なものになるような気がする。たとえば、私は今でもお母さんがお弁当を作ってくれるので箸箱を持って行くけど、割り箸で食べるより箸箱に入れてもらった箸で食べる方がずっとおいしいもの。お母さんが自分のために食事を作ってくれているという実感がある。運慶は誰のために箸箱を作ったのかな。運慶には、運ナンチャラとか言う子供が沢山いたでしょ。未織さんという人はどの子供の子孫なのかな。子孫に伝わっているというならその子のために彫ったのかな。どんな風に伝えられているのだろう。……いろいろ興味が湧くじゃない。少なくとも運慶は食事ということを大事に考えていたんでしょうね。ねえ、道具と人間の関係を考えるとき、箸や箸箱は結構高い水準を行ってると思うんだ」
「まあ、だりあの工学部志望の動機が人間と道具との関係だからな。学部選びの動機としても相当変わっているよね。進路を結構絞り込んでいると思ったけど、ある意味では何でも興味の対象になっちゃうんだね。箸箱さえなるんだから」
「そうよ。道具は人間を幸福にするばかりではなく不幸にもするんだから。何でもちゃんと見て置かなきゃ。界のお母さんが亡くなったのは、自動車という高速移動の利便性が逆方向に向いてしまった結果だし、お母さんの悲鳴が界の耳に聞こえたのは、どこでも通話ができるという携帯電話の利便性の裏返しなんだから。いくら先端技術でも、人間との関係のレベルとしては箸や箸箱の水準までいっていない。そう思わない?」
「さあて、だりあの言おうとしていることも分からなくはないけど、どう評価していくんだろうか。皆目分からないや」
「私も分からない。だから興味があるんじゃない」
 だりあの目は輝いている。
「未織さんという人に会いたい。期末試験が終わったら、一緒に会いに行こうよ。お願い」
 界は両の掌で顔を覆った。その顔をだりあに向けたまま言った。
「俺は嫌だよ」
 界は掌をゆっくり左右に開いて、そこから顔をのぞかせた。
「オヤジが何も言わないのに、付き合っているかもしれない相手にのこのこ会いに行くなんて、どの面下げて行けるんだい。相手は絶対変に思うよ」
「じゃあ、もっと偶然な出会いにすればいいんじゃない」
 だりあは嬉しそうに言った。何かを企むときの小狡いまなざしが可愛い顔を一瞬過ぎった。
「私がお母さんへの言い訳にしているように、界が私に勉強を教えるの。場所は市立図書館の地下1階の飲食コーナー。学習コーナーだと声を出せないから、あそこが良いと思う。私が図書館を常時利用して界が私に勉強を教えに来るようにしたら、偶然未織さんに会う可能性も増えるでしょ」
 界は嫌な顔をした。
 だりあは、界が未織に会いたくない以上に自分に会わせたくないのではないかと思えてきた。
「界が協力しないのなら、私ひとりでやるからいいわよ」
 窓の外を通る人影に傘が開いてきた。界は苦い顔を外に向けていた。だりあはドリンクバー行き、カップに湯を注いで席に戻ってきた。そしてティーバッグをカップに沈めた。黙ったまま1、2分が過ぎた。だりあは、ティーバッグを引き上げ、一口含んだ。界はまだ外を向いたままだ。
「ごめんなさい。私めが悪うございました。界の家族のことだから私はひっそりとしています」
 だりあはちょこんと頭を下げた。
「もう怒らないでよ。私は何もしないからさ」
 だりあはポシェットから600円を取り出し、テーブルに置いた。
「ケーキセット代。……ねえ、もう帰ろう。雨も降ってきたみたいだし」
 だりあはすでに立ち上がっている。
「そうだな」
 界はコートと傘とレシートとテーブルの硬貨を持って、カウンターで精算した。
 二人がレストランのドアを出ると、冷えた空気が襲ってきた。
 界が大きな傘を開くと、だりあは界の腕に抱きついて身を寄せた。えへっと界を見上げる。二人は家に向かって歩き出した。だりあは界の機嫌が直っているのが嬉しかった。でも、未織という人には絶対会ってやると心に決めた。

この記事へのコメント

  • かがわとわ

    カラーピーマンさま
    丁寧なお返事、ありがとうございます。
    残念ですが、気が変わったらいつでもお待ちしています!
    芦野さんの言うように、書き手の個性はそれぞれですから、
    いろいろな人が混じるほど面白くなります。
    芦野さんが「まとめるタイプ」なら私は先へ先へと展開して、物語をうねらせたいタイプです。今回は「つづく形式」なので、ありがたいです。
    (^^♪
    四角関係という刺激的な設定を利用して、どんどん爆弾や揺さぶりをかけ、登場人物を苦悩させたいと思っています。いひひ。
    2022年02月03日 07:46
  • カラーピーマン

    芦野様 かがわ様
    目をキラキラさせながら少女を描く芦野様のお姿、一度でいいから覗き見てみたいです☆彡 今、ミステリー小説を読むことが多いせいか、バラバラだった人間関係がだんだんつながっていくのがとても楽しく、興味深く拝読しています。

    せっかく書き手に誘っていただいたのですが、今は読む方が楽しく、これからの爆発的エネルギーと凝縮していく過程を楽しませていただければと思っております。今後の展開をワクワクしながら次回作をお待ちしております。
    2022年02月03日 00:19
  • 芦野信司

    カラーピーマンさま
    いつもコメントをいただき有り難うございます。ご指摘のとおりリレー小説では女性の目線でばかり書いていますね。女心を理解しない男の書き振りなので、パターンに堕していないか心配しながら書いているというのが実情です。目はきらきらさせているかもしれませんが。
    また、ご指摘のとおり、第1話と第2話で広がった話を第3話で関連づけてまとめました。これまでリレー小説を書いて、何となく思ったのは、私は展開するよりもまとめる方のタイプではないかということです。それで、今回のクルーでは最終書き手になることを立候補しました。自分の能力の指向性を確認しようという目論見です。かがわ さんと藤村さんという強力な書き手に対しどこまでやれるのか、ワクワクしながら書いています。
    リレー小説という形式は、本当にいい鍛錬の場になります。カラーピーマンさんもご一緒にいかがでしょうか。作品は書きっぱなしではなく、宮原さんはじめメンバーで意見交換を活発に行っています。これが勉強になります。
    2022年02月01日 19:22
  • かがわとわ

    カラーピーマンさま

    おっしゃる通り!!
    芦野さんは、女子中高生を書くのが得意なのです。
    (^^)v
    執筆している様子を見たことはありませんが、おそらく目をキラキラさせて書いていると思います。
    2022年02月01日 13:59
  • カラーピーマン

    第3話 「ファミレスの二人」拝読しました。

    かがわ様がおっしゃっていた次回作の「あの方」は芦野様でしたか。想像はしていました。

    どんどん膨らんでいくお話が、今度はどんどん繋がって、まるでミステリーを読んでいるような気分になりました。図書館司書の未織と界のお父さんとの出合い、界の複雑な気持ち、理系女子のだりあの好奇心。これからの展開が楽しみです。
    ありがとうございました。
    それにしても芦野様は、女子中高生を書くのがお上手ですね。前も痴漢に遭った女の子の様子があまりに自然なので、驚いたことを思い出しました。
    2022年01月28日 21:04