第1話 信じる?  かがわとわ

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 冷蔵庫を開けたら、顔が並んでいた。
「……あのなぁ」
 界(かい)の唇から、溜息とも笑いともつかぬものが漏れる。六個の卵のうち四個に、マジックで顔が描いてある。目と眉は同じ形で、黒丸の上にハの字。口は丸い形がすぼまっていたり、横にひらいていたりで、それぞれ違う。ひとつ手にとってみると、裏側に「め」と書いてあり、別の顔の裏には、「な」とある。残り二つは「ん」と「ご」だった。──め、な、ん、ご。なんだこれ? どうやら口の開き方と文字は一致しているようである。な、ご……。
「あ、わかった! ばっかじゃねえの」
 ご、め、ん、な、だ。親父のやつ、ガキみたいなことを。っていうか、俺がこれで喜ぶとでも? 五十五と二十だぞ。──ちょっとウケるけど。もう怒ってねえし。昨夜は父親の食事当番だったのに、界が腹を空かせて帰ってきたら家の中は暗かった。まじかよ、とコートを脱いでいたところへ、父の悠吾(ゆうご)が「あれ? ご飯は?」と呑気に帰って来た。界の担当日だと思って、残業してきたと言うのである。悠吾がコンビニまで買い出しに行っくと言ったのだが、腹ぺこマックスだった界は、待てねえ! と半ギレ。おやつ用に常備してあるカップ麺を、無言で啜り合うこととなった。
 土曜の朝というのに、親父はどこかへ出かけたらしい。まだ仕事が残っていたのだろうか。大学生の自分は、残業が入るわけでもないし、バイトをやめたばかりで、次のバイトを始めるまで時間に余裕がある。昨夜だって、映画観に行って遊んでたんだし。界は、スマホを手に取ると悠吾にLINEした。
「冷蔵庫を開けるたび、見上げているやつらがいるのはキモイので、今晩はこれでスパニッシュオムレツを作ります。これから俺も出ますが、夕飯に合わせて戻ります。 本日の当番より」

「本のリメイク講座」と貼り紙してあるドアを押した。地元図書館の集会室だ。一歩入ってぐるりと見まわし、うわ、外したと思った。おばさんばかりだ。初老の男性がふたりいたが、すでに開始五分前。このあと、界と年齢が近い人間がやって来てくれることは無さそうだ。タウン誌で見つけて、参加希望の連絡をしたらすんなり入れた。土曜だから、年齢層は広いと思ったのだが。受付で「中ノ瀬さんですね。お名前でもニックネームでもお好きに書いてください」と記入式の名札クリップを渡された。この人が今日の講師だろう。帆布地の作業用エプロンをしている。やはりおばさんだが、テレビのクイズ番組によく出る女優にちょっと似ているせいか、会場にいる女性たちとは異質の雰囲気を醸し出していた。じっと見るのもあれなので、界はわざと粗雑に名字を書くと、その場でコートの前を開き、腰前につけはじめた。
「ほぼ座ってする作業になるので、胸につけていただけますか」
 彼女がふたたび声をかけてきた。優しく含めるような物言いだっので、逆に焦ってしまい、クリップが目の粗いセーターに絡まる結果となった。心の中で舌打ちする。
「あらら、無理して引っ張ると……」
 すい、と伸びて来た手がなよやかに動いて、半開きのコートに少し潜り込むかたちで器用に名札を外した。そのまま「ここらへんかな」と界の胸につけ直してくれた。
 ──あ。この、香り。
彼女の手が界の胸に近づいた時、心の奥できつく締まっていたねじが緩んだ。この……そうだ……何かクセの強い花とココナッツを合わせたような……この香り……。母親が愛用していたハンドクリームの匂い。そうだ。これだ。同じだ。あの匂いだ。記憶に眠っていた母親の匂いが唐突に呼び覚まされ、懐かしさとやるせなさが同時に襲ってきた。界は小さい時から母のハンドクリームの匂いが好きで、チューブの蓋をそっと外しては匂いを嗅いでいた。直接嗅ぐと、甘い香りが濃厚過ぎたが、母の肌にのると、柔らく安らぎのあるものに変わった。それはドレッサーの小引き出しに入っていて、本体も蓋も上品な銀色だった。本体にプリントされたラベル部分、薄紫のシンプルな四角形の中に、黒い英文字で商品名が記されていた。界が十一歳の時、母は事故で亡くなって、棺の中にハンドクリームも入れられてしまった。過去に肩をつかまれて揺すぶられたようで、界は息を大きくついた。
「あの……」
 申し訳なさそうな声で、界は現実に戻った。押し黙ってしまったことで、不愉快になったと思われてしまったのかも知れない。彼女の案じる瞳に向かって 、
「あ、いえ、その、ありがとうございます。どうも」
 間抜けな答えを返すと、講座のテキストを受け取って空いている席に向かった。男性ふたり、女性ひとりが着いている四人掛けテーブルだ。
 そもそも着席時にコートを脱いで、それからゆっくり名札をつければ良かったんだよな。普通、そうだよな。ああ、やべえ。きっと変なやつだと思われたんだろうなぁ。何やってんだよ、俺。界はうじうじする気持ちを抑えながら、テキストを眺めた。

 お気に入りの文庫本を素敵にリメイク
 あなたただけの一冊をつくりましょう

 手順が図入りで説明され、ホチキスで綴じられている。表紙の下に「講師・市民図書館司書 高富未織」と小さくあった。たかとみ──名前は何と読むのだろう。みお? あとでさりげなく訊ねれば、またあの香りと接近できる……。ああ、だから、何考えてんだ俺……。界の雑念を押しのけて、向かいの席のおばさんが話しかけて来た。
「学生さん?」
「はい」
 面倒なので短く返すと、おばさんの隣のおじさんが、
「夏にね、孫が同じ講座に参加して。ほら、夏休みの宿題に、ね。その時は付き添いでわたしが手伝ったのですが、いい仕上がりだったもんでね。今度は自分たちのをと思いましてね」
 と繋いだ。孫が小学生だとしたら、ほぼこの人がやってしまったような気がする。二人は夫婦らしい。ちらりと名札を見ると「かずこ」「よしお」とあって、何だか恥ずかしくなった。さっきから、妙に気持ちがざわついている。あの匂いのせいだ。そうだよ、この人たち同じ名字だから、名前書いたんだよ。なんか変だ、俺。
「あなたは、どうしてここに?」
 人馴れした笑顔で、おばさんの質問は続く。
「はあ。本が好きなので」
 また、簡単に返した。界はまだ何の仕事に就きたいのかわからない。大学は文学部の国文学科に進んだ。悠吾からは「就職、どうするんだ。教師にでもなんのか」と言われているが、教師は嫌だ。教師になった先輩たちから、いかに今の学校が面倒かをさんざん聞かされてきたので教職課程はとらないことにした。来年は三年になるので司書か学芸員の単位をとって資格に繋げるつもりだが、どうしてもこれになりたいというものは無い。漠然と本と係る仕事がしたいと思っている。本に囲まれている自分の部屋は落ち着くし、本に触っていると安心する。だから、ここの講座もアンテナに引っかかって来たわけだ。
 それぞれに、カッターや定規、大きい目玉クリップ、ボール紙や製本用布地テープなどが配られ、全体の流れの説明を簡単に受けたあと、一度席を立って、講師の──高富さん前に集合した。長テーブルに、見返しや表紙用の厚紙が並べられている。それぞれが持ち寄った本のイメージに合わせて、チョイスするのだ。
「栞ひもと、花布(はなぎれ)も選んでくださいね。花布は、これです。ハードカバー本の天地にちらりと見える布がついているでしょう? 本来強度を保つ役割もしていましたが、今は装飾の意味合いが強いです」
 高富さんの説明に「可愛い」「いろんな色があって迷っちゃう」「私、黄色が好きなのよね」と、おばさんたちから声があがる。
「花布は装幀の一部ですから、表紙とのバランスも大切です。──それともう一つ。本を読んでいる間って、実は常にこの花布が視界に入っているんですよ。例えばドキドキのホラー小説の花布。ピンクと黒だったらどちらを選びますか? 黒い表紙に赤の花布なんかも意味ありげですよね。そういう心理的効果も考えて作ると面白いですよ」
 すかさずアドバイスをしながら、高富さんも笑顔である。楽しそうに仕事をする人っていいな、と界は思った。
カッターマットの上でリメイク製本が始まった。カバーを外した文庫本に見返しを貼り、
背から花布と栞を仕込む。選んだ紙とボール紙をサイズに合わせて表紙、、背芯紙、裏表紙
として貼り合わせ、それで包むようにまた慎重に本体と貼り合わせていく。製本用の糊を
薄め、刷毛で均一に伸ばす。空気が入らないように注意し、ひとつひとつの工程に集中するうち、界の気持ちはすっかり落ち着いて来た。高富さんはそれぞれのグループの机をまわって質問に答えたり、手を貸したりしている。界のいるところまでやって来た時、今まで黙っていた隣に座っているおじさんが「先生」と待っていたように声をあげた。
「先生のお名前は、なんと読むのでしょうか」
「はい? あ、はい。みおりと読みます」
「ほう。そのまま、なんですね」
 ──製本と関係ないだろが。いや、その関係ない質問を自分はしようと思っていたのだった。界がおじさんの顔をチラ見すると、伸びすぎて垂れた眉毛に加え、鼻の下も伸びていて雪崩のような顔になっていた。相席夫婦の奥さんのほうは、眉間に皺を寄せ、旦那さんの方はなぜか界に向けて頷いてみせた。──みおりさんか……。このおじさんのいる席で良かった……おじさんありがとう……って、だから何考えてんだ、俺。
「いい感じですね」
 高富さんは──未織さんは、界の作業を確認するように見ると、次のテーブルに向かって行った。手を伸ばしてくれなかったので、あの香りは嗅ぎ損ねた。
最後に製本用の鏝を使って表紙の開く位置に溝を入れると、ぐっと本らしくなった。ハードカバーの文庫本だ。完成した本を板でサンドイッチにし、圧力を加えて整える。
「糊がしっかり定着するまで一時間。このあと三十分ほど時間をとっていますので、互いに感想を言い合いましょう。触れちゃだめですよ。みなさん、とても素敵にリメイクされていらっしゃいます。お帰りになる時は、だいぶ乾いていますが、ビニール袋を用意していますので、本を入れたらこの太い輪ゴムを上からしっかり十文字にかけてお持ち帰りください」
 おばさんたちが駆け引きのように装幀を褒め合う様子についていけず、界は自分の本を前に所在なく座り、手持ち無沙汰からスマホを手にした。だりあからLINEが来ていた。着信音をOFFにしてあったので、ずいぶん前から続けて着信していたことに気づかなかった。「今どこ?」「カイってば」「無視すんなよ~」に続いて、怒りのスタンプが連打されている。そのあとに「カイ?」とあって、切れている。界はこそこそと返信した「製本講座って言っただろ」「まだ受講中だからあとで」だりあのやつ、忘れてるっていうか、まともに聞いてなかったな。誘ったのに興味ないって言ったのはそっちだろ。三歳下のだりあは、斜め前の家に住む幼馴染で、ものごころついたころから界のお嫁さんになるとアタックしてきた。赤井さんちのだりあちゃんと、中ノ瀬さんちの界くんは、一人っ子同士ということもあって界としてはだりあを妹のように思っていたのだが、だりあはそれで満足しなかった。界もだりあが彼女なら悪くなかったし、結局、だりあが高校生になった去年から正式に──何を持って正式とするかわからないが──つきあっている。スマホの画面に「ごめん」「で、何時に──」という文字が次々に浮かんだが無視して鞄にしまった。
「なかなかシックな表紙にしたのね」
 いきなり、後ろから声をかけられて飛び上がりそうになった。彼女が──未織さんが立っていた。
「あ、はい。あの、本に合うイメージの紙がこれが一番近かったというか。こう、暗い感じのやつがいいかな、と」
 しどろもどろで返事をし、気づかれないように息を整え、落ち着きを取り戻す。表紙は、灰色がかった黒に深緑のマーブル模様だ。花布と栞は深緑で揃えた。
「差支えなければ、この表紙の書名を教えていただけるかしら」
「漱石の『夢十夜』です。『文鳥』と合わせて一冊になっているものですが」
「漱石が好きなの?」
「も、好きです。好きな作家はいろいろいます。『夢十夜』は何度も読んで、表紙もくたびれてきたので、装幀しようかと持ってきました」
 未織さんの表情が緩んで、界の横にまわりこんだ。
「第六夜、どう思う?」
「六夜……何の夢でしたっけ」
「運慶の」
「ああ、運慶が山門で仁王を彫っている──。あれは彫っているのでなく、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているんだという話ですね。ミケランジェロも同じこと言ってますよね。すべての大理石の中には像が内包されていて、それを自由にさせてあげるために彫ると。それはあとづけで別の人が言ったみたいですけど、漱石はそれに影響されたのかな」
 未織さんがどんな答えを期待しているのかわからないが、界は自分なりに妥当な答えを返してみた。
「そのあとは?」
「そのあと? えーと、自分でも薪にする予定の木を片っ端から切ったけど、仁王は隠れていなかったというオチですか。明治の木に仁王はいないとわかったっていう」
 これでいいのだろうか。この人は、第六夜の感想をどう期待しているのだろう。明治の風潮に対する漱石の皮肉ですねとか無難なことを言えば喜ぶのか。界が探っていると、
「よく覚えてるのね。第六夜では、夢の語り手が暴風(あらし)で倒れた樫を木挽(こび)きに挽かせたもので彫ってみるでしょ。あれをね、運慶もやってたのよ」
「え? それは実際に? まあ、不思議ではないですよね。余った木とかでちょっとしたものを。でも運慶って、ちまちました物を彫るイメージは無いなあ」
 話が『夢十夜』の六話から逸れていくが、未織さんは楽しそうだ。界が話せる相手だと思ってくれたようで、ちょっと誇らしい。この際、もう少し話していたい。
「鎌倉の、鶴岡八幡宮の大銀杏が倒れたことを覚えてる? えーと二〇一〇年だから十一年前ね」
「よく年まで覚えてますね。十一年前と言ったら九歳ですが、倒れた騒ぎは覚えています」
 その時、母は生きていたのだなと、未織さんの手に目をやりながら界は思った。
「世の中の出来事って、自分の身に起きた事とリンクして覚えてたりするから。それにしても九歳だったの! 若いわねぇ。私なんかあなたより年上の子がいてもおかしくない歳だから羨ましいなあ。大銀杏は、前日の強風が原因で倒れたらしいけど、ああいうふうに嵐や強風で樹齢の長い巨木や神木が倒れることって当然昔からあったわけ。運慶はね、そういう折れてしまった部分を譲り受けて木彫り作品をつくるのを趣味としていたの。仏師として依頼された仕事のほかに、個人的な楽しみとして」
「へえ。そんなの聞いたことも読んだこともないです」
 界が素直に驚くと、未織さんは満足そうに笑み、あたりを憚るように声をひそめた。
「私ね、運慶が彫った箸箱を持っているの。神木の倒木に内包されていた箸箱」
「ハシバコって、あの箸を入れる」
「そうよ。運慶作の、箸箱」
「まじっすか。いえ、本当ですか。運慶って鎌倉時代ですよ。そんな昔のっていうか、どうして本物だと……そうだとしたらなんであなたが……あ、からかってます?」
 未織さんは、唇に人差し指をあて「小声でね」と促してからゆっくり首を振った。もしかしたら死んだ母親より年上かも知れないのに、揺れる髪は、だりあに負けないくらい艶があった。
「本当よ。私、運慶の直系の子孫だもの。本物は家にあるけど、写真なら」
 エプロンのポケットからスマホを出して操作すると、界に画面を近づけた。
握る指から、あの香りが立ち上がった。界は唐突に切なくなり、絶句する。
「信じる?」
 未織さんの声と指に吸い寄せられるように、界は写真を覗き込んだ。

この記事へのコメント

  • かがわとわ

    空心菜 さま

    温かい感想いただきまして、感謝申し上げます。
    並外れた四角関係の設定に加え、運慶がつくったらしい箸箱を絡ませるというお題に、いったいどんな話をつくればいいのか……(;'∀')
    と、頭を抱えました。
    一話目の重責もありましたが、登場人物の名前を決める楽しみや、状況を設定できる自由もあり、結局楽しんで書きました。(^^)
    二話の書き手は決まっています。
    どうぞお楽しみに。
    2021年12月07日 15:19
  • 空心菜

    かがわとわ様
    第一話拝読しました。
    運慶が彫った箸箱!! まずは設定に驚いてしまいました。ルールの中で書くのは難しいと思いますが、人物や情景が見えてくるようで上手いなあ、と思いました。

    運慶作の箸箱、私も見てみたい。これからの展開がとっても楽しみになるお話でした。
    ありがとうございます。
    2021年12月07日 11:39